モンテッソーリアン、里親になる。

10年モンテッソーリ教師をやってみて向いてないことが分かった(笑)ポンコツモンテッソーリアンの里親活動奮闘記録。

子どものことで悩んだら、自分や環境を省みるチャンス。

大阪のモンテッソーリ研修、続き。
(と言っても別のトピック)


モンテッソーリあるある
かどうかは分かんないですけど、

専門用語がキツイ言葉で誤解生みがち
&意味分かったら多用しがち。

でも、本当にその意味を理解しているかどうかは、
その専門用語を、どれだけ自分の言葉で表現できるか?にかかってる。


例えば、「逸脱」と「正常化」という言葉。

正常化なんて、ホントに誤解されやすい言葉だと思う(笑)
うちの子、異常なんですか?みたいな。
でも正常化の対義語は異常ではなく、逸脱。


モンテッソーリの考えでは、

逸脱:子どもの自然な発達の道筋から、何らかの理由(環境が合わないなど)で逸れてしまって、傍目には問題行動を起こしている状態。

正常化:逸脱していた子どもが、自分の発達の道筋に戻れること。
目の前の活動に集中、没頭することで正常化することが多い。正常化した子どもは素直で穏やかになることが多い。


という認識。
なんだけど、これをちょっと間違えてしまうと、もしくは大人に余裕がないと、

クラスのルールにそぐわない、大人の意図することに対して素直じゃない子ども
=逸脱している

というインスタント転換をしてしまいがち。


例えば、クラスで集まって朝の会をしているときに、ひとりだけウロウロしている年中さん。

「あの子は逸脱してるから」

の一言で片づける大人。

本当は、その大人の安易な発想に、子どもが逸脱(してると見える)行動を起こす原因があるんじゃないのかな?と感じる。


正常化を別の言葉で言えば、

「あなたが持っているものが、誰に遠慮するでもなく、安心して、余すことなく表に出せているね」
と祝福したくなるような状態。
(とは大阪研修のトレーナー、小川直子さんの言葉)

だから、朝の会に参加したくないな〜という自分の気持ちを、ウロウロすることで素直に行動に出せている子は、ある意味正常化の状態にある。とも言えるんじゃないかなと。


そこで私たち大人がすべきことは、

大人の意図すること(この場合は朝の会)にそぐわない子どもに「逸脱している」というインスタントなレッテルを貼ること

では決してなく、

(どうして朝の会には来ないのかな。やってることに興味がない?それとも本当は別のことがしたかった?それとも、皆で集まって同じことをしなきゃいけないのが窮屈?安心できない何かがあって、怖い?何だろう?)

と、行動の原因には思いを巡らせるけど、その子の存在を「逸脱している子ども」とインスタントに否定せず、まずはその状態の子をまるっと受け入れること。

その子をよく観察して、原因を探す努力をすること。もしかしたら、ウロウロしているように見えて、耳はこちらのしていることを聞いているかもしれない。参加するタイミングを本人なりに探しているのかもしれない。

まずは1対1で安心できる、信頼できる関係性を築く努力をして、「もしよかったらこちらにも来てね。参加してみたら意外と楽しいかもよ?」と明るく、無理はさせず、でもたゆみなく誘い続ける。

そもそも朝の会の内容を考え直す。その子が楽しく参加できる内容は何か?考えて試しにやってみる。

さらにそもそも、朝の会って泣いてもわめいても引きずってでも参加させなきゃいけないほどのもの?と自分の価値観を見つめ直してみる。


などなど、大人が自分の言動を省みるのが先。なのではないかなと思う。
「個」の発達が社会性の発達より先にくると学んだ私たちは特に。

6歳までは個が育ち、安心して個を出せる子は周りの人とも安心して関われる。そこから人間関係を自分で学び、うまくいかないときにも自分なりに(たまに大人の助けも借りながら)対峙して、自発的な社会性が育っていく。個が尊重された子どもは、小学生の頃には自然に周りの人たちと活動したくなるし、ルールや秩序を守ろうとするようになる。

そういう発達の道筋が、子どもの発達を学んだことで、また子どもたちを見てきて、本当に腑に落ちていたら、乳幼児期に大人が意図することに強制参加させることの意味とは???となる。


専門用語の怖いところは、大人が意味を分かったように勘違いして、それを子どものレッテル貼りに使ってしまうこと。発達障害とか、グレーとかそういう言葉も、ここ最近になって安直に使いがちだけど、子どもは本来、カラフル。それぞれに色があって、しかも一人の子だって1色とは限らない。ましてやグレー1色じゃない。(とは木村泰子さんの言葉)


子ども一人ひとりが、目の前の何に興味を持ち、没頭してるのか。
逆にどんなことで困っているのか。
大人が問題行動とみなす行動が子どもに現れるときというのは、その子ども自身が困っているときなんじゃないのかな。まずはそこに気づかないと。


そこを大人が自分の言葉で説明しようとせず、グレー、とか、発達障害、とか、逸脱、とか言う言葉で一括りにしてしまうのは
実は大人がその言葉を、そして目の前の子どもを、ちゃんと理解していない。子どもの困った!に対応していない(できていない)、
そういう自分に言い訳をしているか、気づいていない状態。なんだと私は思う。

子どものせいに、保護者のせいに、何か自分以外のせいにしていたらラクだもんね。
でもそれは、プロとしての仕事じゃない。
私たちプロの養育者は、子どものことでこちらの思い通りにならなかったら、まず自分を、自分が作っている環境を、省みる。
子どもの中に原因を探すのはそれからでもいい。


私がモンテッソーリを好きなのは、ちゃんとそうやって、自分を振り返るチャンスをくれるからだと思う。
もっと言えば、自分だけじゃなくて、私たち大人が作り出している環境を省みることができる。それは、自分を責め過ぎないことにもつながるので、大人もラクになれる。

別トピックですがまだまだ続きます。