モンテッソーリアン、里親になる。

10年モンテッソーリ教師をやってみて向いてないことが分かった(笑)ポンコツモンテッソーリアンの里親活動奮闘記録。

バザー 作品紹介

もはや商品というよりは作品の域。

montessori-akane.hatenablog.jp

毎回感じるのは
こんな素敵なものを生み出せる人たちの手ってほんとにすごいなぁという尊敬の念と
それと真逆をいく私の手への自己評価の低さ…苦笑

ま、今さらしょうがないですね。
(開き直った!)


来年モンテッソーリの0-3コースを受ける予定なのですが
手作り物の宿題がいっぱいありそうなので
今からそれが不安でしょうがない。

【雑感】腑抜けた【ただの日記】

今、予想以上に腑抜けています。


心待ちにしていたイベントが終わってしまった無力感。
あぁ~~~終わっちゃったよ~~~(涙)


でもおかげさまで、思ったよりたくさん買えました。
あの小さなバザー会場を何周したんだろう…

一週目:2,3点をお買い物袋に入れつつ様子見
二週目:もう2,3点お買い物袋に入れつつ様子見
三週目:これいっぱいあるから一つくらい買ってもいいかな
四週目:これもいっぱいあるから一つくらい
五週目以降:え、これ残ってるの?買ってもいい??ほんとに???
…最終周:残ってるならこれもこれもあとこれも


我ながら怖い。


買えたものの魅力紹介はあかねブログの方に書いてこっちにリンク貼ります。


そのあとモンテッソーリつながりの友達数人にお譲りする予定!
個人教室を開いてる人や学童経営してる人、
園長クラスの方もいるので、
私個人が持っているよりもその人たちの手に渡った方が
子どもたちの育ちに一役買ってくれると信じております。

あかねバザー

明日です。

montessori-akane.hatenablog.jp


超楽しみにしてた…
この日はぜったい他の予定入れない!
と年明けから予定に書きこみスタンバイ。(怖いな!)

同じく超楽しみにしていたモンテッソーリつながりの友達は
風邪をひいてしまい行けなくなってしまいました。残念!
この気候じゃ風邪もひくよね…むしろ私ひいてないの奇跡…


今の園で遊べるものとか
教具作りに参考になるものとか
少しでも買えるといいなぁ!
(去年隣で爆買いしている友達を見て
遠慮してしまったのを少し後悔しているw)



もし何か買えたら
その商品のどこに「自分で!」を応援する工夫があるのか
紹介できたら、と思います。
買えなかったときはごめんなさい

反省しつつやっぱり愚痴

「前の園では○○でしたよ」
っていうの、感じ悪いから
なるべく言わないようにしてたのに
また言ってしまった…反省。

今の園は今の園のやり方があるからな~
同じこと訴えるにしても、
もっと違う言い方しないとな~

とその点に関してはかなり反省。


(中身に関しては納得言ってないこの書き方よ)


ちなみにそれを言ってしまったのは

首のところがゴムになっていて
頭から被るタイプのスタイやエプロンは
ひっぱられたりひっかかったりして
首がしまる恐れがあって、危ない。

と園長に言われたからなんですけど…


どんだけ慎重やねん!!!


その基準だと世の中危ないものだらけですがな


そんなこと言う割には人員配置に無頓(以下略


この過剰とも言える慎重さが
園生活の随所に現れて、
様々なルールとなって子どもたちだけでなく
現場の保育士をもしめつけているんだなぁ


う~ん、キツい。
やっぱりムリかな…(弱音

言語の敏感期 後半 書く、読む活動について

今までの記事はこちら。
montessorilover.hatenadiary.jp
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上の2つでは主に「聞く」「話す」を中心に書きましたが
3歳以降は「書く」「読む」活動に興味を持ち、ハマる時期でもあります。


書く活動をしている子どもたちを見ていると
文字の形そのものに興味があり、
その形が表す音があることが面白いようです。

そして手を使う旬の時期でもあるので
書く道具を持って、手首を動かして字を書く
ということがとても楽しいようです。

モンテッソーリ園の子たちは、
最初はサンドペーパーでできた文字をなぞったり
(文字部分がざらざら、文字以外のところがつるつるしてます)
やわらかいフェルトペンで
トレーシングペーパーに文字をなぞったり
砂に文字を書いたり
チョークで黒板に文字を書いたり

(最初から鉛筆じゃないところがポイント。
鉛筆は筆圧の微妙な調整が求められるため、
この時期の子どもには難しいのです)

複数の段階を経て
最終的には鉛筆で字を書くようになります。

この間、文字を書くために必要な
・鉛筆を持つ3本の指(親指、人差し指、中指)
・やわらかく軽く動かせる手首

筋肉を身につけていき、
動きを洗練させていきます。

そして文字の形や書き順を
自然に習得していきます。

それが自然にできるのは
言語の敏感期、手を使う旬の時期だけでなく
秩序の敏感期(書き順)
感覚の敏感期(形、音)

の力も働くため。

文字が書けるようになると
字そのものが書けた!という喜びから始まり、

その字を組み合わせて、単語が書けた!

→単語と単語をつなぎ合わせて
(途中やや省略w)文が書けた!

最終的に

書いたことが相手に伝わった!

という喜びにたどり着きます。



「読む」も同様に
文字が読めた!
→単語が読めた!
(また省略w)
→文が読めた!

最終的に

なんて書いてあるか、わかった!

という喜びにたどり着きます。


「読む」に関しては特に、
日本語はアルファベットとは異なり
ひらがな一文字に対して一つの音しかありません。

その一文字一音対応に自分で気づいたら、
五十音をあっという間に覚えちゃう子もいます。

これはおうちでの一例ですが、

お母さんから
「これが〇〇ちゃんの『ろ』だよ」
と、名前の中にあるひらがなを
ひらがな積み木で教えてもらった3歳の子が

「これも『ろ』だね!」
と嬉しそうに
「つ」の積み木を持ってきました。

ろ と つ

確かに形が似ています。

そこで
「これは『つ』なんだよ。
ほら、裏側を見て。
つみきの絵が描いてあるでしょ。
つみきの『つ』なんだよ。
こっちはろうそくの『ろ』」

と、絵に描いてあるものの頭文字が
表に書いてあることを伝えると

その日から3日間、
その子はひらがな積み木に夢中になり
「ろうそく…ろ、りんご…り、」
とブツブツブツブツ言いながら、

五十音すべてのひらがなを
覚えてしまいました。

そしてその日から
自分で絵本を読んでみたり
年長の頃には
幼児向け雑誌を読んでみたりして

「〇〇ちゃん、おこさんのおなまえをいれてください、は」
と大人向けの小さいルビのところまで読んで
大人を笑わせたりしたそうです。

小学校にあがってからも
読書や作文が好きだったその子は

大人になってから7年ほど
翻訳のお仕事に就いたそうです。

おそらくその原体験は
「なんて書いてあるか、読めて嬉しい!」
「私の書いたものが、読んでわかってもらえて嬉しい!」
という幼少期の体験だったのではないでしょうか。



…なんで最後の例だけやたら詳しく追ってるかというと


これ私だから。www


唯一タイミング逃さなかった言語の敏感期!!!

(あとはことごとく逃してる~るるる~
いや親を責めてるわけじゃなくてね
だいたい知らなかったら逃すよね
知ってたとしても現実できないこともいっぱいあるしね
あとはほら、本人の努力次第!
努力しなかったのは私の責任!w)


…気を取り直して。


幼児期に「書く」「読む」活動がピッタリなのは

筋肉の調整期であり、
言語に興味がある時期でもあり
秩序の敏感期や感覚の敏感期や
いろんな内側からの力が働いて

最終的には
本人が嬉しい、楽しいから」。

これに尽きると思います。


だから例えば、
「今が読み書きにピッタリなんだって!」
と大人が息巻いて読み書き系の習い事、
某く〇んなんかに連れて行ったとしても

本人が
「く〇ん楽しくねぇ…苦行…」
って感じてたとしたら
それは時期か、やり方か、その両方か
とにかく何かが、その子にピッタリじゃないんだと思います。

(く〇んには何の恨みもないのだがw
分かりやすい例でいつも出してしまってすみません)

ということだけは言っておきたいかなぁ。


そもそもモンテッソーリの活動は
むりやりやらせるものではなくて
子どもの発達段階に沿って
本人の興味に合わせて行うもの
だから

早期教育という言葉は
なんか違うのになぁ~
むしろ適時教育なのになぁ~
とも感じています。

(最後やっぱりモンテッソーリ誤解あるあるになってしまうなw)

言語の敏感期 後半(3歳~5歳半頃)

私事ですが、夫の祖父が他界しました。

一週間のうちに関東~四国を2往復したので
正直かなりハードでしたが、
それでもお別れの前と、お別れとの両方に立ち合えて
お礼を伝えられたことは本当に本当によかったです。

私の夫は直系の孫ということもあり
結婚が遅かったということもあり
大勢いるお孫さんたちの中でも
特に気にかかる存在だったようです。
(そして夏に帰省するはずが事故で帰れず…
故の2往復です)

最後の最後までご心配をおかけしたこと、
本当に申し訳ありません。
そして本当にありがとうございました。



そんなわけで前回からかなり空いてしまい
もうお忘れかもしれませんがw、
言語の敏感期の続き。


前半はこちら。
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何度もくどいようですが

吸収する時期(0~6歳)において
言葉が持つそもそもの役割、
「感じたことや気持ちを伝える」
「コミュニケーションの道具」
「気持ちを整理する」
がとても大切
だというところを土台に書きます。


特にこの時期、大切にしたいのは

実体験と言葉が結びつくこと

です。

実体験の中で

実物(おとうさん、おかあさん、いぬ、ねこ、トラック、バス など)
感覚(暑い寒い、熱い冷たい、ざらざらつるつる、痛いかゆい など)
感情(うれしい、悲しい、楽しい、怒っている、イヤ、困る、優しい など)

これらが言葉と結びつくと、
まず自分の感じたこと、伝えたいことを言葉で伝えられるようになります。

幼少期の場合だと、
ママに会いたい、
バスに乗って楽しかった、
痛いのはイヤだからやめてほしい、
お友達がおもちゃを貸してくれた、優しくしてくれてうれしい などなど。


また、これらの言葉を聞いたときに
情景や他者の気持ちを想像できるようになります。


想像力とは
言葉から具体的なものを思い浮かべられる力、
抽象化できる力です。


想像力が豊かということは
言葉を聞いて、それらの情報を組み合わせて
自分が実際にその場にいなくても、
頭の中に思い描いたり
心で感じとったりできる力が強い、ということです。

逆に想像力が乏しいというのは
同じ言葉を聞いても
思い描けるものが少ないということ。


例えば、「花火」という言葉を聞いたときに
家庭用の花火しかしたことがない子どもと
大きな花火大会に行ったことのある子どもとでは
思い描くものが変わってきます。

全国的にも有名な長岡の花火大会に行ったことがある
Aちゃんが話す「はなび」からは
夜空いっぱいに広がっては消えゆく大輪や
数秒遅れてお腹に響くドンっという音までもが
感じ取れるような、そんな話し方でした。


「魚」と言われたときに
スーパーで売っている魚しか見たことがない場合と
水槽や水族館で泳ぐ姿を見たことがある場合と
海や川などの自然の中で泳ぐ姿を見た場合とでは
思い描ける情報の量と深さが大きく変わってきます。

「栗」と言われたとき
むいた甘栗しか見たことがない場合、
皮付きのものを見た場合、
栗拾いに行ったことがある場合
でも同様です。


実体験と言葉が結びつくことで
言葉から得られる情報量や深さが増す。
そこから想像力が豊かになる。

言語の敏感期に大切なことのひとつです。



想像力は、自分を守る力にもなります。


最近、高層マンションから
子どもが落ちる事故が頻発しています。
高所平気症」なんて言葉まで生まれています。

これはあくまでも私の想像でしかありませんが

もし幼少期に、
ちょっと怖いな…と感じるくらいの
少しだけ高いところから飛び降りてみて
命に別条がない程度の痛い思いをしていたら
もしかしたらこういう事故は減るのではないかと感じています。

「高い」「怖い」「飛び降りたら痛い」

これらの体験がないまま、
体験と言葉が結びつかないままだと
本当に高いところに行ったときに
「飛び降りたらどうなるか」
が想像できないのかもしれません。


川遊びをしたことがある人はわかると思いますが
海と同じ要領で入ると
体が浮かないことにビックリして焦ります。

塩水ではないので当たり前といえばそれまでなんですが
実際に体験すると、その理屈が自分事として身に沁みます。


実体験と言葉が結びついた分だけ、
自分の感性で物事をジャッジできるようになります。
さらにその判断基準や理由を他の人にも伝えられるようになります。


さらに、言葉は
一時的に荒ぶる感情を抑える理性の道具
でもあります。

「カッとなってやった」
は一時的な感情に流されるままの行動ですが
それを抑える力が言葉にはあります。

特に怒りや悲しみ、不安などの負の感情を
モヤモヤしたままにせず
言葉で整理して、時にはそれを相手に伝えることで

暴力によらない、言葉による
平和な解決方法が模索できます。

逆に、ここで感情を表す言葉が乏しいと
感情はモヤモヤしたまま整理されません。
これが時に、とても悲しい結果を生み出します。

だからここでも
言葉がとても大切なのです。



自分が感じたこと、伝えたいことを
言葉で考え、整理して、
相手に伝え、
相手の言葉から想像し、
そこから感じたことをまた言葉で伝える。

という言葉によるコミュニケーションの練習を、
人は小さいうちからしています。


だから、私たちモンテッソーリ教師は
小さな子どもたちにも
どんな些細なトラブルであっても

まず子どもの気持ちを受け止め
言葉にしてあげることで
子どもの感情と言葉を結びつける。

相手の子どもにも言葉で伝える、
または本人が自分の言葉で言えるようサポートする。

子どもがしてほしくないこと
してほしいことを通訳になって伝え続け
子ども間で、言葉で平和に解決できるようサポートする。

という地道な努力を怠らないのだと思います。

大人の役割 映画「みんなの学校」を観て

すみません、言語の敏感期後半を書く前に
どうしても書いておきたいことが。

以前、この記事↓の中で
子どもが小学生になった頃から
違うものを排除しようとする働きが見られる
ということを書きました。

montessorilover.hatenadiary.jp

これ、読みようによっては
「子どもの発達段階的に
小学校あたりからいじめが発生するのは
しょうがない」
とも受け取れるなと自分で感じたので
(誰かにそう言われたわけではないですが)
謝らせてください。

大変申し訳ありません。
大人の役割を放棄した怠慢な大人の戯言でした。

ということを痛切に感じてしまったのです、
映画「みんなの学校」を観て。

minna-movie.com


舞台は大阪にある公立の大空小学校です。

公立ということは、その地域にいる子どもなら
誰でも通えます。

そこには、ADHDやADD、自閉症など
様々な障害を持つ子どもや
多種多様な家庭の事情を抱える子どももいます。

中には
「この子が大空小に行くんやったら
うちはやめとこうか」
と噂が立っていた子どももいます。

でも、すべての子どもが
一緒にクラスで生活しています。

「すべての子どもひとりひとりが
安心して過ごせる、一緒に学べるところ」

を追求した結果

自分の個性も友達の個性も
ひとりひとり尊重して大切にする

子どもたちが育っている

というまぎれもない事実がここにはあります。

子どもたちだけでなく、
先生や保護者、地域の人をひっくるめた
大人も、子どもから学びながら育っています。

その結果、不登校もいじめもゼロ。


映画を観たらわかりますが
生徒ひとりひとりが、
ごく自然に、優しいんです。

そして物事の本質を見抜く賢さがあります。

子ども同士でぶつかったときも

「何が問題なのか」
「じゃあどうすればいいのか」

ということを、大人のサポートを受けながら
自分の心で感じ、頭で考え
行動に移しています。



例えば、こんなくだりがあります。


みんなから「臭い、臭い」と言われて
疎ましがられていた子がいました。

着ているものからも、本人からもにおい、
ランドセルからゴキブリが出てくるといった状態です。

でもここの先生(このケースでは校長先生)は
「いろんな事情があるんだから、臭いのは我慢しましょう」
なんてきれいごとでは済ませません。

「臭いのは事実!
じゃあなんで臭いと思う?」

と周りの子どもたちに問いかけます。

「洗濯してないから」
「風呂に入ってないから」

「そうやな。みんなの洗濯は誰がしてくれる?」

「お母さん」

「そうやろ。みんなの服はお母さんが洗濯してくれる。
でもこの子は、自分で洗濯せなあかんねん。」

「なんで?」

「この子のお母さんな、朝から夜遅くまで仕事やねん」

「ふーん…」

こういったやりとりから
この子ども特有の事情、
自分のうちとこの子のうちとは違うんだ
ということを感じ取ります。

そこでもうひとつ先生がふみこんで

「みんなに聞くけど、どっちなんか教えて。
1つ、この子が臭いからあっち行け!って気持ち?
それとも、この子臭いけど、一緒にいたいからなんとかして!って気持ち?」

と尋ねます。

子どもたちは正直なので
「臭いからあっち行け!って気持ち」
と答えます。

でもこのやり取りの中から

「臭くなければ一緒にいられる」

という本質を感じ取ります。

先生はその子ども本人にも
「臭いで。自分で何とかしいや」
と伝えました。

すると
「じゃあ学校の水道で頭洗えばいいんじゃない?」
という提案が出てきました。

「それええな。
明日から校長室の水道で頭洗い」

と、次の日からシャンプーを用意して待っていたそうです。

そうやってこの子は
この学校の中で安心して友達と過ごせるようになり
居場所ができました。

(これは映画じゃなくて本の方だったかも…
ぜんぶ貸してしまって今手元にないので
うろ覚えですみません)

不登校ゼロ、モンスターペアレンツゼロの小学校が育てる 21世紀を生きる力

不登校ゼロ、モンスターペアレンツゼロの小学校が育てる 21世紀を生きる力



これはほんの一例ですが、

子ども同士のトラブルの中で
大人が子どもの通訳になり
「この子はこう思ってる。あなたは?」
「こっちの子はこうしたいって。じゃあどうしよう?」
などと問いかける中から

子どもの自然な優しさや
物事の本質を見抜いて対応する賢さが
ものすごく育っているのです。


こういう学校が
現実に存在するということが
すごく嬉しい。

現実に存在するということは
誰でも、どこの学校でも
やろうと思えばできるから。

変わろうと思えば変われるということを
体現してくれているから。


私の発言もそうですが
子どもたちのことで何か問題が起きて
それを改善しようとしたときに

「できない」理由を挙げてあきらめるほうが
「どうしたらできるか」を考えるより
楽なことって山ほどあります。

でも私たち大人が
「どうしたらできるか」
を悩み、考え、

そこでとどまることなく、
子どもたちにもその悩みをオープンに伝え
共有して、相談しあうことで

一緒に学びあって育ちあっていくことが
できるんだな
そういう風にやっていけばいいんだな

それが大人の役割なんだな

大人の価値観を子どもたちに押しつけたり
その価値観で管理したり誘導しようとしたりするのは
本当に違うんだな

大人が子どもひとりひとりを尊重して大切にすると
今度は子どもが、周りの人ひとりひとりを大切にするようになるんだな

と深く感じました。



子どもから学ぶ。

あかねこどものいえでも
モンテッソーリ教師養成学校でも
その実習園でも
何度も何度も耳にした言葉です。

実は、映画を見て、そして本を読んで
「あかねと、今までに見た実習園と、同じ!」
と感じることばかりでした。

子どもから学ぶ、だけでなく
大人は自分がいなくなっても
子どもが自分で考えて動けるようにサポートする
とか
子どものトラブルを大人がジャッジしない、
子ども同士で解決できるように大人が関わる、
とか
そうやって子ども一人一人を尊重して関わっていくと
今度は子どもが、周りの人を尊重して大切にするようになる
とか、
共通点が山ほどありました。


その姿勢が土台にある先生方を含めた環境の中で
幼児期を卒業するまでに
「自分で考えて自分で行動できる」
ように、子どもたちは育っています。

でもその中でも
実は小学校になじめない子どもが何人かいます。

それは、子どもが悪いの?
子どもが小学校に合わせて変わらなきゃいけないの?

むしろ、子どもから学ぶという姿勢で
小学校のほうが変わっていくことを求められているんじゃないの?

とも感じてしまいました。

ここは超個人的な感想で
しかも他人やほかの組織に変われ!なんて
おこがましいのもわかっています。

でも学校に行けない子どもにとっては
「それが事実」です。
そうやって、行けない子どもがどんどん排除されて
居場所がなくなっていく。
今までのやり方の学校にいられる子たちだけで、
学校社会を作っていく。

それで本当にいいの?

と思わざるを得ません。

その現状を打破して有り余るものが
この映画や本にはつまっているので
興味を持った方、悩んでいる方は
ぜひ一度、ご自分の目で確かめてみて下さい。

(注:回し者みたいですが木村先生や大空小とは
なんのご縁もありませんw
ただただひたすら、深い感動と希望を感じただけです)