モンテッソーリアン、里親になる。

10年モンテッソーリ教師をやってみて向いてないことが分かった(笑)ポンコツモンテッソーリアンの里親活動奮闘記録。

言語の敏感期 前半(胎内~3歳頃)

前回からの繰り返しになりますが、
吸収する時期(0~6歳)において
言葉のそもそもの役割、
「意思を伝える」
「コミュニケーションを取る」
「気持ちを整理する」
がとても大切
だという視点から、
言語の敏感期について書いていこうと思います。

この前提がないと
読み書きを幼児期にさせるのはどうなのか、とか
英語を習わせるのは早い方がいいのか、とか
大人目線の話になりがちなので。
本質はそこじゃないんだよっ!という思いも込めて。


さて本題。

言語の敏感期の働きは
おなかの中にいるころから始まり
5歳半ごろまで続き、6歳頃を境に、だんだん消えてなくなります。

読んで字のごとく
「言語」に敏感になる時期です。
自分が生まれた環境の中で生きていくために必要な
「言語」を習得するための働きです。

胎内~3歳頃を前半としていったん区切ったのは
無意識的吸収期、意識的吸収期の境目も関係しています。

言語の敏感期、前半は
無意識に何でも吸収する時期です。


この時期、
「聞く」「話す」「書く」「読む」のうち
「聞く」と「話す」にスポットライトがあたります。

「聞く」はそれこそ、おなかの中で耳ができたときからさまざまな音を聞き、
その中から人の声を聞き分けていると言われています。

生まれてきてからも
いろいろな生活音の中から
「人の声」に強く反応します。

そしてその音やイントネーション、アクセントなどの印象を
溜め込んでいます。

さらにはここに、「見る」も加わって
話す人の口元をじっと見つめます。

この口の動き、その動きで発せられた音を
無意識に吸収
しています。

そして自分でも口を動かし、音や声を出し
吸収されたものをアウトプット
し始めます。

これが「話す」のもとになります。

まだ何もわからないように見える赤ちゃんにも
たくさん話しかけるといいですよ、というのは
この「聞く」「話す」の土台を豊かにするということです。


今まで子どもたちと接してきた感覚からですが

1歳を数ヵ月も過ぎると、
こちらの言うことがだいぶ伝わってるな
という感覚が出てきます。
それは日に日に強くなります。

そして1歳台のどこかで、
「物には名前がある」
ということを発見するようです。
「これは何?」とばかりに指をさしたり
答えると喜んだり、というのが増えてきます。(下の例1参照)

そうやって聞くところから、言葉を溜め込んで
ボキャブラリーを増やしていき
「ママ、パパ、ごはん」などの単語を少しずつ発するようになり、

やがて
「てんてー(先生)、いた」「ねんど、やりたい」
などの二語文になり

2~3歳頃の「話し言葉の爆発期」を迎えると
セキを切ったように、とめどなく話し続けます。
(こっちがわかったよ、もういいよってくらいw)

こうやって
「コミュニケーションの道具」
「自分の思いを伝える手段」
としての言葉を身につけていきます。

3歳頃までは全部、無意識の働きというのがポイントです。

覚えよう、身につけようと意識している訳じゃなく
もともと持っている無意識の働きで、
最初の約3年で、母国語の土台ができあがるのです。



この母国語の土台ができあがる時期に
コミュニケーションがとれる~自分の思いを聞いて、理解して、受け入れてくれる人
子どもはとても信頼する。
信頼してくれると、今度はこちらの言い分も聞いてくれるようになる。
というのが今までの実感としてあります。


<例1> Kくん 1歳7か月 男の子の場合

私の顔を見ると
「あ!」と嬉しそうな顔をして
救急車のミニカーを持ってきます。

「これはなんていうの?」と聞いているように見えるので
「きゅう・きゅう・しゃ」
とゆっくりはっきり答えると
とても満足そうなお顔で、今度は他の先生のところに行って
同じようにします。

他の先生が「え、何?w」という感じだと
あれ?見当違いだな
という感じでまた私のところに戻ってきて
救急車をずいっと私の顔の前に持ってくるw ので
もう一度
「きゅう・きゅう・しゃ」
と答えると、

そうそうそれそれ!
僕が求めていたのはそれだよ!(嬉)

という感じでまた満足そうな顔をします。

(最近は他の先生も「名前が知りたいんだね」と分かってきて
同じ反応をしてくれるので、
先生全員によくなついています)



<例2> Hくん 2歳7か月 男の子

トイレトレーニングの回に登場した
「うんちはパンツにしたい」お子さんですが
その経緯から
「パンツにうんちをしても責めない人」
「トイレでうんちしなさいと強要しない人」
をとても信頼するようになりました。

つまり、Hくんが無意識に求めているコミュニケーション、
自分の思いを否定しない、聞いてくれる
そういう人を信頼するようになったのです。

そうしたら、その信頼関係が
別のところでいい効果をもたらしてくれています。

外遊びのお片付けの時に、
「お部屋に入るよ~、おもちゃ持ってきて~」
と倉庫の前に立っているだけで
Hくんが意気揚々と、ほとんどのおもちゃを持ってきてくれるように。

「はい先生!」
と渡すや否や、次のおもちゃにむかって走り出す。
そしてまた持ってくる。
それが僕の使命!
みたいな熱い思いを感じています。w



今まで子どもに反発されてきたのは
「先にぼくの思いを聞いてよ!」
「いいから私の話を聞いて!」
という子どもの訴えを退けていたからだなぁ
と改めて感じさせられました。
ごめん、今までの子どもたち…

先に子どもの思いを聞いて
一度受け止めて繰り返す。
言葉が拙い子どもの思いはこちらが代弁する。

そのワンクッションをおくだけで
「自分の思いを伝えられた!」
「コミュニケーションがとれた!」
と子どもが感じられる。

さらに、子ども自身も言葉で気持ちを整理することができるので
冷静になれて、落ち着くことができる。

言葉でコミュニケーションがとれると
ムダなぶつかり合いが減って、平和に共存できるんだなぁ
ということを、反省もふまえて感じております。

この観点から
言語の敏感期の大切さを訴えたい次第です。


(英語等の習い事関連についてはまた別の機会に!
その前に後半(3~6歳)も書かなきゃw)

言葉の役割

最近、このブログに
スペインから熱いお礼のコメントがつきました。
ひゃっほう!
(ご希望により非公開になっております)

ものすごく嬉しかったと同時に
言葉の役割を再認識させられました。

モンテッソーリの先生になるコースでは
実践編で
・日常生活の練習
・感覚
・言語
・数
・文化
の5分野について学ぶのですが

私が通っていたコースは2年間の夜間コースで
その都合で最初に習ったのが「言語」でした。
(本来は日常生活から順に習います)

そこで何度も「言語の役割とは」を聞かれて、
それまで意識していなかった言葉の役割について
今までにないくらい考えました。

そして改めて考えると、言葉ってすごいんだなぁ
とそのとき深く感じたのです。

・思っていること、感じたこと、意思を伝える
・コミュニケーションの道具
・気持ちや状況を整理する
・時代や場所を越えて共有できる

など様々な役割があるのですが
今回のスペインからのコメントにより
「時代や場所を越えて共有できる」働きを特に強く感じました。

職場の愚痴を書いてる場合じゃないw


そして子どもたち、
特に吸収する時期(0~6歳)の子どもたちと関わる上で
「意思を伝える」「コミュニケーションをはかる」「気持ちを整理する」
といった言葉の役割をとらえていることはとても重要です。

この観点から、言語の敏感期について書いていこうと思います。

(日本でモンテッソーリ=早く読み書きできるようになる、早期教育
みたいな印象のほうが強くて、なかなか書けなかった)

前置きですでに長いので、本編は次回以降ということでお許しください。
(出た~ムダに長文~)

そのルール、子どもにとって本当に必要ですか?

という考え方が、今の職場に来てからのくせになってしまい、
我ながら、この組織の中では私は厄介者だなぁと感じておりますw


前回ご紹介した
「21世紀を生きる力」(木村泰子・出口汪共著 水王舎)にも
既存のルールの意味を問うくだりがあります。

(以下、引用)
例えば、『授業は行儀よく椅子に座って受けるもの』という固定概念に縛られていると、授業中に子どもが椅子に座ろうとしない場合、教師はその子どもに対し、半ば強制的に座らせようと指導しがちです。(中略)
 こうしたケースではその都度、そもそもの目的を考えてみる必要があります。
 授業中、子どもに求められる本質は何か。それは、椅子に座ることではありません。授業の内容を聞く、または授業に参加することが目的のはずで、極端に言えば寝っ転がっていてもその目的は達成できます。

 ある時、落ち着いて椅子に座っていられない1年生の子について、ある6年生の子が次のように話してくれました。
「あの子な、椅子嫌いなんやって。家に椅子ないから、ずっと座ってるのが落ち着かんのやって」

中略)行儀とか作法以前に、椅子にじっと座っていることが困難な子どもも少なからずいる、という視点を持ちさえすれば、指導の形は自然と変わります。それが、個に応じた対応をするということです。
 まさに、こうした瞬間、大人の価値観や固定概念、そして都合を子どもに押し付ける教育をしてはいけないと思うのです。

(中略)
日ごろから自分の指導について、その目的を明確に自身が理解し、納得して子どもたちの前に立つ必要があるのではないでしょうか。

(引用終)


ここを読んだとき、「こういう考え方の上司の下で働きたい…」と痛切に感じてしまった。w
っていうか、あかねはこういう上司だらけだったんだよ~
幸せだったな…


つい最近も、事柄としては小さなことですが、ありました。
「そのルール、どうしても守らなきゃダメ?」ってことが。

1歳児がおやつを食べるときに、
前はテーブルクロスを敷いていたのですが
最近はそのクロスを子どもたちが手でグシャグシャするのがブームでw、
(楽しいんでしょうね、気持ちはわかりますw)

だったら敷かないで食べればいいよね
子どもたちもそんなにこぼさなくなってきたしね

ってことに、現場の先生たちの間でなりました。

そこに、不規則シフトで入る、組織の古株先生が久しぶりにやってきて
「だめよ、テーブルクロス敷かなきゃ」
と一言。

思わず
「何でですか?」
と聞いてしまう私たち。

そして、これこれこういう経緯で敷かなくなりましたって説明しても

「だめよ敷かなきゃ。
そう決まってるんだから


…出~た~~~~www


決まってるんだから。
ルールだから。
規則だから。




だからなんでそのルールが必要か
って聞いてんだろが!!!




あぁ失礼、取り乱しました。
こんなことだらけなもんでね…いやいや失礼失礼。
答えになってないし嚙み合わないからさ…

で、このあとクロスを敷いた1歳児のところにこの古株先生がついて
「手はおひざだよ、おひざ!」
「ぐしゃぐしゃしない!」
「誰が上手かな~?誰ができるかな~?」
とずっと口うるさく言っていました。

悪い先生じゃないんだけどね…
うるさいんだよね正直www

これだけ逐一口うるさいと、
先生がついてないと
何も考えられない、何もできない子どもが育ちそう。
(実際ほかの系列園では指示待ちっ子が続出な事実…)

子どもは大人が管理するもの
っていう固定概念からもう離れられないんだな
と感じます。


だからその管理のために、
おむつ取れないと2歳児クラスに上がれないとか
いったんトイレトレーニング始めたらもう二度とおむつに戻れないとか
意味不明なルールがいっぱいできるんだな…
そしてそのルールができたら
もう見直すことがないんだろうな…


残念!!!


(でも上の2つは少なくとも変えていきたいよ~
そのチャンスを虎視眈々と狙ってる人がここにいるよ~w)



今までのルールが、本当に子どもにとって必要なのか、
逆に子どもの自然な発達や成長を妨げているのではないか

という視点を持てるということは、
子ども一人一人に、柔軟に対応できる力につながるんだなと感じたので
私はおそらく、今の組織ではまだまだ厄介者であり続けそうです…w

読書の秋のいいお買い物

久々の大ヒット。

不登校ゼロ、モンスターペアレンツゼロの小学校が育てる 21世紀を生きる力

不登校ゼロ、モンスターペアレンツゼロの小学校が育てる 21世紀を生きる力


不登校ゼロ、いじめゼロ、
モンスターペアレントゼロ、
障害のある子もない子もみんなで過ごし、
先生も子どももお互いに学びあう
実在する公立の小学校。

そこの校長先生を9年間勤められた木村泰子先生と

生き抜くために「論理力」を身につける
がモットーの出口汪さんとの共著本。


子どもとともに生活していく上で
大事なことしか書いてない。

そんな感じの本です。

そしてこれを読んだら、
モンテッソーリの世界に飛び込んでから
今まで教わってきたこと、実践してきたこと、
その土台にある考え方、
間違いじゃなかったと強く思えました。

むしろ乳幼児期から、大人になった時を見据えた考え方だということを再認識。



実はついこないだ、
モンテッソーリ園を卒園したお子さんが
小学校になじめない
というお悩みを聞いたばかりでした。

でもよくよく話を聞いてみると、
むしろそのお子さんのほうが
自分の考えをしっかり持っていて
自分の言いたいことをちゃんと主張
できている。
つまりは自立している。

だけど、自分の考えを口にしたり
行動に移したりすると
小学校では問題児扱いされる。

これは、小学校のほうが変わっていく必要があるんじゃないのかな?
自分で感じて、自分で考えたことを
主張したり行動に移せたりできるように育った子どもを
受け入れられる、そしてさらに育てられる組織であってほしい。
とそのとき漠然と感じたわけです。


この本を読んであらためて
今変わるべきは、小学校、つまりは大人の意識の方だな
と強く感じました。

子どもを主体に、子どもから学んだら
学校はいくらでも変われる
というのを体現しているのが木村先生であり、大空小学生なのです。


「何か問題が起こったときというのは
大人も子どももみんなで学びあえる絶好のチャンスなんです」

とはっきり言い切る木村先生。

おかげさまで、自分の最近の保育も省みることができました。

子どもが揉め事を起こしたとき、
「またか、めんどくさい」と思ってなかったかな。
「そんな小さなこと、どうでもいいでしょ」
と自分の価値観押しつけてなかったかな。
問題を起こす子ども=問題児だととらえてなかったかな。
行動と人格をちゃんと分けてとらえられてたかな。
自分も子どもと一緒に、どうしたらいいかちゃんと向き合って考えようとしてたかな。
などなど。


木村先生、いつかお会いしたい…
いや、会いに行こう。


ちなみに、この小学校のドキュメンタリー映画
「みんなの学校」は、全国各地で上映中です。

minna-movie.com
(上映会を開いてみませんか のところをクリックすると、全国各地の上映会スケジュールが出てきます)

私も今週見に行きます。わざわざ田端まで…笑

めっちゃ楽しみ!!!


とにかく愛と希望に溢れた素敵な本なので
一人でも多くの方に読んでもらいたいです☆








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子どもサイズの道具とその効果

買い物に行くと、職業柄
つい子どもサイズのものを探してしまいます。
そしていいものを見つけたら、予備も含めて2個は買ってしまう。
というのはどうやらモンテッソーリ教師あるあるらしいw

今回はそんなマニアック目線の買い物で見つけた
子どもサイズグッズとその活用法をご紹介します。


子どもに何かしてほしいとき
上から命令するよりも
「どうしたら子どもが自分からやりたい!と思えるか」
に注力した方が効果的なのは以前も書いた通りです。


最近の例でいうと、外遊びの後のお片付け。

子どもには
「時計の針が〇(数字)になったらお部屋に入るよ」
とあらかじめ伝えておいて、いざ

「〇になったよ~、お片付けして入ろう~」

と呼びかけると、まぁ逃げること逃げること。笑

年長ともなればうまいこと言って
いかにイヤなお片付けをしないですむか
に全力を注ぐ子もいます。こらっ

「一緒に片づけようよ~」
と言いながら私も片づけるのですが
気づいたら私しか片づけてない。おいっ!笑

最後、やや切れ気味に
「じゃあ先生は先にお部屋に入るね、さようなら」
と突き放し気味に言うと
「やだー!」「待って!」
と急に焦りだし、“怒られるから”しぶしぶ片付ける。


というのが続いていたんですが
これは大人にも子どもにも精神衛生上よろしくない。


ということで
子どもが主体的に、楽しくお片付けする方法
は何かないかいな~
と思っていたところ、


見つけました。



たわしです。



子どもの手のひらにピッタリの、小さなたわし。
雑貨店や100均でもよく見かけます。


その日は、
「さぁお片付けするよ~
今日はこれでおもちゃを洗おうっと」

と、その小さなたわしと洗面器を人数分並べました。

その道具を見た子どもが

「やる!」「やりたい!」

とわらわらと集まってきました。


洗面器に水をはって
その中に、砂や泥にまみれたおもちゃを入れて
たわしでゴシゴシこする。

ピカピカになったおもちゃからかごに入れる。


たったこれだけなんですが
これが絶大的な効果をもたらし

私がなにも手伝わなくても
園庭中のすべてのおもちゃが
ピカピカになってかごにおさまりました。

私はそれを
おもちゃの倉庫に持っていくだけ。



ら、、、



楽~~~~~~~!!!



何だったんだ今までの苦労は…






子どもサイズの道具を
生活の中に加えただけで
今まで嫌がっていたことを
子どもが喜んで自らやるようになる


という楽しい例のひとつを見ました。


子どもサイズばんざい!!!

(っていうかモンテッソーリ教師として早く気づけよ私w)





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【結果報告】子ども@スーパーでの問題行動【対処法】

以前、こんな記事を書いてみたんですが。

montessorilover.hatenadiary.jp

その後、この方法を実践して下さった方が
その結果を教えて下さいました。
(ありがとうございます!)


2歳児のAちゃんとそのお母さんで
いつものスーパーにお買い物へ。

あらかじめ買うものをAちゃんに伝えておき、
スーパーに入ります。

そのスーパーには子ども用のカートがあり←good!
Aちゃんはそれを押しながら
「じゃがいも、…にんじん、」
と、伝えられた「買う予定の物」を
カートに入れて進みました。

途中、買う予定のないオレンジのところで立ち止まり
手を伸ばしかけたAちゃん。

(あっあっあっ)と一瞬焦ったお母さんですが、
そこを耐えて制止の言葉を飲み込んで
何も言わずに見守っていた
ら、

Aちゃんがお母さんの方を振り返って、

「…かわない?」

確認したそうです。

「うん、オレンジは買わないよ」

と答えると、納得したように
伸ばした手をひっこめて
またカートを押して進んでいったとのこと。

そして無事に
その日のお買い物を終えたそうです。



小さな子どもでも
あらかじめインフォメーションがあったら
それに従って行動する力はある

(逆に何もインフォメーションがないと
衝動的な行動は抑えられない)
ということを実践の場で教えてもらった次第です。




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多様性を受け入れる土台がよく育つ時期

先日、英語教師で2児のお母さんでもある
高校の先輩と話していた時に
私の書いたもの↓を読んで下さっていたらしく
子どもの吸収する力ってすごいね
という話になりました。

bambi-no.net


何でも、アメリカから来た知り合いのご家族をお招きしたときに
大人同士は最初、どことなくぎこちなかったのだけど
子どもたちは英語日本語関係なく、
初対面から打ち解けて盛り上がっていたのだとか。

「家にあった新幹線の模型持って
『KOMACHI! KOMACHI!』ってすんごい楽しそうだったw」

そうです。
こまちすごいなw (いやそこじゃなくてね


この話には続きがあって、

「そのとき年長だった長男は今小学校低学年。
私が英語教師だから、教材準備で
家でも英語の歌を歌ったり英会話の練習をしてると
下の子は一緒に歌ったり英語を言ってみたりするのに
長男は恥ずかしがって、もう絶対言わないんだよね~。
『言って?』っていくらお願いしてもダメ。
幼稚園の時、あれだけ英語圏のお友達と盛り上がってたのに。」

「何でも受け入れられる時期と
そうでなくなる時期の境目って、あるんだね。
それってどの辺りなんだろう」


子どもたちを観察する限り、
幼児期と学童期の間に、その境目があると感じます。
とそのときもお答えしました。


英語圏日本語圏ほかの言語圏問わず
言葉だけでなく文化や様々な違いを問わず
打ち解けられるのは
相手の丸ごとを受け入れられるから。


スポンジのように何でも吸収する6歳頃までの時期には
「違う」ことを過剰に意識せず、排除もせず、
ありのままを丸ごと受け入れる力がある
んだなぁと
最近つくづく感じさせられます。

montessorilover.hatenadiary.jp
montessorilover.hatenadiary.jp



保育園で乳幼児期の子どもたちを見ていると
母国語が違う子も、障害がある子もいますが
それらの違いをそのまま自然に受け入れて
自然にコミュニケーションをとり、共存しています。
彼らにとってはそれが「世界」だから。


自分の住む世界には多種多様な人たちがいる
違う言葉を話す人も、
目や皮膚や髪の色が違う人も、
ハンディキャップを持った人も

というのを、理屈じゃなく
感覚で吸収しているのです。

そしてそれが
その子の世界観の土台になります

多種多様な「違い」が、最初から世界に含まれています。

その違いを認め合いながら
一緒に過ごせるやり方を、自然に見つけ出します。



このスポンジのような時期が過ぎたあたり、
具体的には6歳前後、
年長の途中~小学生になる頃から
「違うもの」を意識して、
時には排除しようとする働きが始まるようです。

それは、それまでに築き上げた世界観、
自分のテリトリーを守ろうとする
自己防衛のような働きなのではないかと思います。


例えば、今日本でもてはやされている
ハーフタレントの多くが
子どもの頃にいじめや嫌がらせをうけたことを
メディア上で告白していますが

これは「違うもの」を排除しようとしたことで
起こってしまったことなのかなと思います。

でもたまたま「違う」というだけで排除された側は
当然とても傷つきます。
時には人生を変えてしまうほどに。



世界観、テリトリーの土台が作られる
何でも吸収する乳幼児期に
様々な国籍や、文化や、障害も含め
いろんな違いを持つ人たちが周りにいると、
その人たちのありのままを丸ごと吸収できる。

そもそも違うことが当たり前の世界観が
その子の中に育ち、
違いを排除しようとすることもなく
自然に共存していこうとする。


このことは、多様性を受け入れる土台がよく育つための
大きなヒントになりえると思うのです。