モンテッソーリアン、里親になる。

10年モンテッソーリ教師をやってみて向いてないことが分かった(笑)ポンコツモンテッソーリアンの里親活動奮闘記録。

大人と違う幼児期の感覚+学童期とのつながり 

今日は町田のマリア・モンテッソーリ子どものいえで、臨時のお仕事でした\(^-^)/ いつもお声がけ下さって嬉しい限りです。ありがとうございます。毎回、何かしら必ず気づきがあります。

今回は9~14時半のシフトだったのでお弁当を持っていったのですが、食べ終わったあと、3歳の子どもたちがお弁当箱を洗ってくれました。
ありがとう~。おかげで今、洗いものがとっても楽です☆


〈子どもが食器を洗う活動 環境の準備〉

子どもの高さに合った台の上に
洗い用とすすぎ用の洗面器をひとつずつ用意。
(洗面器の下にも1枚ずつトレーを敷いてびちゃびちゃ防止)
右から洗い用洗面器、すすぎ用洗面器、洗いものかご の順に並べる。

エプロンをつけ、洗面器にピッチャーで水をはる。
洗い用の方には洗剤も数滴たらして、その水のなかで食器をスポンジで洗う。
洗剤で洗った食器はすすぎ用の洗面器に入れる。スポンジでこすりながら洗面器の水ですすぎ、洗いものかごにふせる。
最後、ふきんを拡げてその上に食器をのせ、包むように拭いておしまい。


二人の子が洗い屋さんとすすぎ屋さんに分かれて、この行程を繰り返して、自分たちのだけでなく、クラスのお友だちや先生の分もぜ~んぶ洗ってくれました♪(まだ練習中及び溜め水で洗うので、洗い方が甘いのは否めません(^^; でもうちで洗うときのベタベタ感がぜんぜん違う!ありがたい!)

「洗ってくれた」と書きましたがこれ、あくまでもこちらの受け取り方であって、子どもたちにとっては自分がやりたい楽しい活動のひとつに過ぎず、お手伝いという感覚ではありません。
だから「洗ってあげた」という感覚でもなく、ただただ純粋に「やりたい」んだなぁということを、全員のお弁当箱やお箸を嬉々として洗う姿を見て改めて感じました。

食器を洗う「行程そのものが楽しい」という感じ。
幼児期特有の感覚であり、大人の行動目的と大きく違うのもここです。

大人は使った食器をきれいにして食器棚に戻すのが目的なので、なるべく楽に!なるべく早く!何なら食洗機の方がありがたいです!ってなくらい、洗いものは楽しくもなんともない(^^;

のですが、子どもにとっては食器を洗うことそのものが楽しく、その行程は実に魅力的。

洗剤を入れると泡が出る、
その泡をつけてスポンジでこするとヌルヌルした汚れがとれてキュッキュッという手触りになる、
水の方はだんだん濁ってくる、
泡をきれいな水で流すと食器がピカピカになって出てくる、
ふきんで包むように拭くと食器についていた水がふきんに吸いとられてなくなる、

それぞれの行程のなかにある“動き”や、その動きに連動した“五感で感じられる変化”が楽しい。

感覚(五感)の敏感期
日常の動きを習得したい時期
の子どもならではの感覚だな~と思います。


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そしてこの、日常生活の中の感覚の変化を味わい楽しむ体験の積み重ねは
幼児期の次の学童期(6~12歳)の知的好奇心、知的欲求につながります。

よくよく考えてみれば油汚れが洗剤で落ちるしくみを、大人になった私も科学的にぜんぶは説明できません(^^;

洗剤で汚れが落ちる感覚的体験、こするとより汚れが落ちる動きとの関連性も体験
→なんで?という疑問が学童期に生まれる
→その疑問を解決しようとする学びが生まれる
という流れがあんまりなかったな~と。
だから化学の知識も生活には結びつかず、勉強は勉強、生活は生活、みたいな分断された感じ。なんかもったいない。

そもそもなんで勉強した方がいいかって、それぞれの日常生活をよりよくするためであって、テストや受験なんてのはあくまでも通過点なんだよな、とよく思うわけです。

食器洗いひとつとっても、この洗剤成分だと少量で汚れがよく落ちる、とか、分解速度が早くて手が荒れにくい、とか、食器に対してどういう動きでこすったり水を当てたりすると汚れがより早くよりよく落ちるか、とかそういう実践に結びついた学びの試行錯誤の積み重ねで、今の台所用洗剤や食洗機が生まれたんだと思うのです。

だから生活に結びついた、実のある学習ができるといちばんいいよな~
と大人になった今、すごく感じます。


幼児期の間は、環境を準備したり、行程をゆっくり見せて示したりして大人がお手伝いすることで、子どもが生活の中の五感を使う体験や動きの体験がいっぱいできるといいな、と思います。