「怒っちゃダメ」という呪いを解きたい2017
先日、高校の同級生とプチ新年会をしたとき、そこにいた人のほとんどが絶賛子育て中だったのですが
「子どもを怒っちゃいけないと思ってはいる(んだけどどうしても怒ってしまう)」
と子どもを怒ることに対して罪悪感を持っている人がとても多かったのが印象的でした。
っとちょっと待ってちょっと待って
子どもを怒っちゃいけないなんて誰が言った???
…と、世の中見回してみると、あぁそうね、確かに「怒らずに子育てする方法」とか「イライラにさよなら!子育て術」とか「お母さんもう怒らないで」みたいな子ども目線からのものとか、まぁそれはそれは山ほどある。私も過去にそんなこと書いていたな…と自省を込めつつ。
怒るってものすごくパワーがいるので、怒る側としてもできるだけ怒らずにいたい。できるだけ心穏やかに平和に過ごしたい。そのための「怒らずにいられる方法」とかだったら、むしろどんどん取り入れていいと思います。
でもそれがいつしか「どうがんばっても怒らずにいられない、私ってダメな親」というレッテルを自分で自分に貼ってしまっていた。自分で「怒っちゃダメ!」という呪いをかけていた。
(この呪いという言葉、「逃げ恥」由来ですがとても気に入っています)
それに気づいたら、その時点で「怒らない」ということをいったん手放して、「怒らないことを頑張る」ことをやめてしまおう!と思うのです。
なぜなら「怒らないようにがんばる」ことでよけい怒りたくなってしまうから。ダイエット中に甘いもの食べちゃダメと思ったらよけい甘いものに目が向いて今まで以上に食べたくなるのと同じです(そうか?)。
そしてこれはあくまでも私の持論ですが、常々感じていること。
そもそも子どもを怒っちゃいけないなんてことはない。
家族や親せきや園の先生など、子どもにとって身近な大人が怒るということは
「自分がどういうことをしたら相手がイヤな気持ちになるか」「どうしたら相手がイヤな気持ちにならず、じぶんのやりたいこともできるか」つまり価値観の違う相手とどう共生していくか
を子ども自身が考えて学んでいくチャンスでもあると思うのです。
(大人にとってもそのチャンスは一緒かも!と書きながら思いました。)
例)
・部屋でうるさく騒ぐ子どもにイライラして怒った
→自分では楽しいと思って騒いでいることが、周りの人は必ずしもそうでないことを知るチャンス
<こうとらえられたらもう一歩ふみこんでモンテッソーリ的発想>
→室内ではどのくらいの声で過ごせばいいか、どこなら大声で騒いでもいいか、子どもが自分で考えられるような声の大きさや言い方に変えてみる(子どもが大声を出しているところにさらに大声をかぶせて怒るのってすごく疲れるし、大声を出す大人を見て育つから逆効果な気がするのです)
・部屋で走り回ったりソファから飛び降りたりして暴れまわる子どもをどなった
→自分がすることを同じ部屋にいる人がどう思うかを知るチャンス
<プラスモンテッソーリ的発想>
どこなら走ったり飛び降りたりできるか一緒に考える&お部屋で集中して静かに遊べるものは何だろう?ブロック、粘土、パズル、切り紙、シール貼り、のり貼りなどなど
・公園で遊んでいて「帰るよ」と言ってもいつまでたっても帰らず「帰るって言ったら帰るの!」と怒りの形相で泣きわめく我が子を拉致するように抱えて帰宅。疲れる…
→大人が「こうするよ」って言ったら絶対そうするんだな…と子どもが感じ取るチャンス
<少し大きくなってからの応用>「帰るよ」に対して「やだ!」の一点張りで相手を怒らせるのではなく、「これだけやってから!お願い!」と交渉術を身につけられるようになるチャンス、自分で決めたことを自分で守ることを覚えるチャンス
<プラスモンテッソーリ発想>
・時計の針がいくつになったら帰るよ(目で見て分かる期限をあらかじめお知らせ*数字読める子限定)
・あと何をしたら帰る?(子どもに決めさせる)
・帰ったら何して遊ぼうか。〇〇はどう?(今していることよりもさらに楽しいことを提案)
まじめな人ほど「子どもを怒っちゃダメ」の呪いにかかりやすいのは、
怒る→子どもを傷つける、委縮させる、大人の顔色をうかがうようになる、子ども自身のやりたいという気持ち、自発性や主体性を阻害する、などのネガティブな結果ばかりを想定するから。ではないでしょうか。
でもこうして「怒っちゃダメ」の呪いが発生して、怒るのを我慢した結果、どこかで我慢しきれなくなって爆発、自分でも止められなくなる。
これを、怒る→子どもに人間関係を学ぶチャンスを与えるというポジティブな結果を想定。こういう発想なら怒っても全然いいんじゃないかと。むしろ怒り小出しにしていきまっしょいということを伝えていきたい2017(大げさ)