モンテッソーリアン、里親になる。

10年モンテッソーリ教師をやってみて向いてないことが分かった(笑)ポンコツモンテッソーリアンの里親活動奮闘記録。

活動の環境を用意する時期

は、子どもの発達段階や、これまでの環境・体験を基に判断する
ということはとても大事です。

何を唐突に当たり前のことを、という感じですが


例えば、今1歳6か月のお子さんがハマって繰り返している活動の一つに
「つまむ」
があります。

トレーの上に、大きめのビーズ(直径1㎝弱)10個ほどと
小さな容器を置いておいて
(また写真がない故の回りくどい説明すみません)

そのビーズを一つずつつまんで、容器の中に入れる。
全部入れたら、容器をひっくり返して
ビーズをトレーにぶちまけ(もっと上品な表現はないのか)
また一つずつビーズをつまみ、容器に入れる…


実はこのビーズセットは
ビーズ通しの活動として2歳半以上のお子さんに出していたものですが
この1歳半のお子さんは、
「通す」ではなく「つまむ」ところにフォーカスがあたっていたので
ビーズを通すモールを除いて出してみたら


「つまんで入れる」を繰り返すこと延々30分。
長い時には1時間(!)。

1歳半の子が30分~1時間近く座っていられることに
まず驚き。
という個人的感想は置いておいて。


人間の体は
中心から外に向かって発達します。


手の発達も、

手全体を握ったり開いたりする、つかむ
→指先が個々に動くようになる、つまむ

という順序です。

「つかむ」しかできないときは、
大きなものしかつかめないのですが

「つまむ」ことができるようになった子どもは
床に落ちている小さなごみをつまんだり
外でアリやダンゴムシ、小さな石をつまんだりします。

前述のお子さんは
今この「つまむ」が少しずつ上手になってきている
という段階にいます。

つまめることがうれしくてしかたがない(体の発達段階)
つまんだ指を離すと、
ビーズが容器に落ちてコトンと音がするのが楽しくてしかたがない
(感覚器官の発達段階)

という感じで、満足そうなお顔で
ビーズをつまんでいます。


この様子を
もう少し幼い月齢のお子さん2人も一緒に見ていましたが

一人はビーズを口に入れようとして(!)強制終了、
もう一人は興味を示さず、何が楽しいの?という感じで
別のところに行ってしまいました。


同じ活動の環境でも、ピッタリくる子どもとそうでない子どもがいます。
それは個々の発達段階の違いによるものです。


ハマっているお子さんにこの活動の環境を用意できるのは
・持ったものを口に入れない
・つまむことが少しずつできるようになってきた
という発達段階がそろっているからです。

口に物を入れて確かめたり
つまむことに興味を示さなければ
同じ環境でも、時期尚早となります。


畑の作物に肥料を与える時期を、
作物の成長段階や
それまでに与えてきた肥料や
気温・雨量などの天候の環境から判断するのと同じように

子どもにある環境を与える時期も、
子どもの発達段階と
それまでの環境と体験から判断することで
初めて子どもにとって意味のあるものになります。


私たち大人は
特にモンテッソーリの先生ならば
子どもの発達段階をまず見極めて
その発達段階にあった環境を用意する。

目の前の子どもがいままでどういう活動を体験してきたか
それを考慮して次の活動を紹介する。

というのは、もう鉄則です。





3~6歳までのモンテッソーリの活動には
4ケタの加減乗除や
宇宙や生物の話などの
小学生もびっくりの活動が含まれるんですが

それができるのは
それまでの間に、上記分野につながるような様々な活動を
ちょうどそのときの発達段階に見合った、興味のある時期に
感覚を通して楽しく体験してきているという積み重ね
があるからです。

(いずれご紹介できればと思います。大人でも楽しいので)



だから例えば、
年少さんにいきなり宇宙の話をしても、
ちんぷんかんぷんなのは当たり前。
それまでの積み重ねがないんだから。
話聞けないのも当たり前。
興味もないし、感覚的にもわからないんだから。


子どもの発達段階も興味も無視した、
大人がやりたいだけの活動。

これはもう、モンテッソーリを謳った「押しつけ教育」であって
モンテッソーリのニセモノと私は呼んでいます。

ニセモノがイヤなのは
「子どものため」と言いながら、子どもの今を見ていないこと。
大人が描く「こうなってほしい」未来の子どもの姿ありきなこと。

今を認められない子どもは
身体も心も満たされず
自然本来の発達からどんどんかけ離れて行ってしまいます…


という悲しいことがちょいちょいあるので
ここで吐き出してみました。


現場のモンテッソーリ教師としては
子どもの今までと、今、これから
を見極めた環境を
できる範囲で用意しようと奮闘しております。

組織にいる以上は、上の意向によって
この「できる範囲」が決まってしまうのがもどかしいところ。くぅ~