モンテッソーリアン、里親になる。

10年モンテッソーリ教師をやってみて向いてないことが分かった(笑)ポンコツモンテッソーリアンの里親活動奮闘記録。

自分とは違う存在

あかねの園長先生の名言に

「子育ては、自分とは違う存在の人間と
一生をかけて向き合うこと」

というものがあります。

(一言一句覚えているわけではないのですが
ニュアンスとしてはこんな感じでした)


私には子どもがいないのですが
折にふれて、この言葉を思い出すのです。


「自分の」子ども
「自分の」クラスの子ども


である前に


子どもは、自分ではない別の存在


であるという、とっても当たり前のことを
忘れないようにしたい。


「自分の」が頭につくと
子どもに対して、必要のない所有意識がでてきてしまって
それに伴って
必要以上の自己責任感や
責める気持ちが生まれてしまう
ような気がするのです。


自分の子どもが、あんなことしてる!
自分がしっかり怒らなきゃ!やめさせなきゃ!どうにかしなきゃ!
自分がしっかりしてないから、子どもがあんなことしちゃうのかな…

など。


もっと怖いのは、
この子どもに対する所有感覚が、そのまま

「あの人の」子ども
「あの先生のクラスの」子ども

という、他人を批判する気持ちや責める感覚につながってしまうこと。


あの子、あんなことして!親は・先生は、何してるの!?
親(先生)がしっかりしてないから、子どもがあんな悪いことするんだ!

という気持ち。



でもここで、
子どもが自分とは違う別個の存在であることを受け入れられる

「あなたがしたことは、私は悲しい/イヤなんだよ
だからしないでほしい
やめてくれるとうれしい」

と、その子ども と 自分 との関わりで
話を進められます。


そこには、

相手をどうにかしよう、やめさせよう

という上から下への支配的な関係はなく、

相手がしたことが私はイヤだから、
やめてくれるとうれしいな

という人・対・人のシンプルな横のつながりだけが残ります。


自分がこのフラットな気持ちになれると

親や先生といった他人も、
その人本人ではない、別の存在の子どもが
しでかすことが、予想のはるか斜め上で
頭を抱えているのかもしれない
手を焼いているのかもしれない
もういっぱいいっぱいなのかもしれない


じゃあ自分には何ができるだろう
自分だったらどうするだろう

という気持ちになれるのです。

そこには、他人を責めたり批判したりする気持ちはありません。



保育現場でも、自分に余裕がなくなるほど
子どもを責めたり子どものせいにしたくなってしまう未熟な私ですが
そのたびに、

自分ではない別の存在の人間を
自分の思い通りに動かそうとしていないか
支配的な、傲慢な気持ちになっていないか
自分が何かしてあげようなんて、
おごり高ぶった気持ちになっていないか

園長先生のことばを思い出しては
わが身を省みる日々です。