モンテッソーリの子ども観
今の職場にいると、「私がモンテッソーリをこよなく愛する理由」が相対的に浮き彫りになってきます。
そのひとつが子どもの見方、とらえかた。
深津高子先生(国際モンテッソーリ協会元理事)の講演では、毎回
従来の子どもの見方=空っぽのバケツ
モンテッソーリの子どもの見方=球根
という例えをされていて、私の中ではこれがいちばんしっくり来ます。
この子ども観の違いによって、大人のあり方も変わってきます。
子どもが何も知らない空っぽのバケツのような存在だとすれば、大人は知識やルールやマナーを入れ込んで「教えて」あげるの!という、感覚としてはどこか上から目線のあり方になる。
子どもが元々生命力を持つ球根のような存在だとすれば、大人は根が伸びるように土の中の石を取り除いたり、球根に合った土や養分や水分といった環境を整えたりすることが必要になってくる。
その後も成長に合わせて水や光や肥料をそのつど適切に施していくのが大人の役目。
水や肥料もやり過ぎたら逆に球根をダメにする。適切な時期に適切なものを適切な量だけ。
という「育つ邪魔をしない」「自分で育つお手伝いをする」というあり方。
私は前者より後者が断然好きなので、自分も後者でいたいなと思うのです。
この「子ども=球根」観があると、
身支度や着替えや食事、お昼寝、排泄などの日常の場面で
「現時点の子どもに合わせて環境設定ができる、環境を柔軟に変えられる」という発想にたどり着けます。
…のはずなんだけど、あれ、おかしいな。園のルールに子どもを合わせさせようとして、でもできない設定なもんだから結果大人がやってあげちゃってるな。それでもってできないのは子どものせい、ひいては親の育て方のせいになるんだよな。おかしいな、設定変えれば済む話なんだけどな。あ、ここはひとりごとですようふふ
次回は「1歳から分かる身支度のしかた」を、あかねを例に書いてみたいと思います。