私の指ではなく、指の指す方向を見て
とはモンテッソーリさんの言葉ですが。
モンテッソーリ教育の「やり方」ばかりが
よくも悪くも注目される中で、
教育法そのものよりも「子どもの姿」を見てほしい
という思いから発せられた言葉だと言われているんですが、
これって100年以上経った今でも
あてはまる場面が多いなと、最近ことさらに感じるわけです。
モンテッソーリ関係者どうしの会話でよくあるのが
「私はこう習ったから」
「え、そんな風には教わらなかったけど」
という
「自分がどう教わったか」議論。
うん、ごめん、そこどーでもいーわ。
それこそやり方じゃなくて、目の前の子どもを見てってことだと思うのです。大人が知りたいこと、求めていることはいつも、目の前の子どもの姿のなかにあるので。
目の前の子どもの発達段階、、、例えばそのときに発動中の敏感期や、その子個人の特性など、を観察して見極める努力をする。そこからその子に合ったやり方を吟味する。
「目の前の子どもの姿から謙虚に学ぶ」
という姿勢が先生の側にあって、
「今のこの子はこういう発達段階だと解釈して、
それに基づいてこうしました」
という強い裏付けさえあれば
どのコースでどなたに習ったことでも、
少しくらい違うやり方のところがあっても、
「子ども」という軸さえブレなければ、
そしてその活動目的さえ外してなければ
いいんじゃないかと思うわけです。
仮に違う意見だとしても、
軸が「子ども」という事実にあると
建設的に議論しやすいです。
子どもの姿や行動→
こう解釈してこのような方法をとってみた→
結果、こうなった→
この結果はこう解釈できるから、次はこうしてみては?
子どもの姿という事実と
それに対して大人がとった方法や行動という事実、
その結果、子どもがどういう行動をとったか、どういう状態になったかという事実。
事実と事実の間に解釈があって、
そこから議論が発展していくのは
ムダではなくむしろ有意義。
逆に「こう教わったから」という理由だけでは
弱い。
弱いわ~その裏付け弱いわ~
むしろ裏付けにすらなってないわ~
子ども振り回されるだけだわ~
過去じゃん!「こう習った」って、過去じゃん!
現実見て!目の前の子どもという現実見て!過去にフォーカスし過ぎないで!習ったことを目の前の子どもに反映させて!あっちなみにここは自分に言い聞かせてるだけだから気にしないで!(早口)
モンテッソーリのプログラムに子どもを合わせさせるのは、本末転倒。
子どもが自分で育つためのモンテッソーリプログラムなんだから。
という超・基本的なところが抜けないように
「子どもを指す指ばかり見てる」状態にならないようにしたいものです。
といっても人は変えられないから、
まず自分からということで☆
(もー、いろいろお察し下さい。
いいところ探し、難航中☆)