モンテッソーリアン、里親になる。

10年モンテッソーリ教師をやってみて向いてないことが分かった(笑)ポンコツモンテッソーリアンの里親活動奮闘記録。

0~5歳半頃 「手を使う」旬の時期

あかねの思い出の中で、個人的に小さな衝撃を受けたできごとの一つに

「水道の蛇口がひねれない子がいた」

というのがあります。

水道の前で唖然と突っ立ってる年少さんを見つけ、
「どうしたの?」と聞くと
「…お水が出ない。」

…自動か!
あなたのおうちの水道は、自動なんだね( ノД`)

で、「見ててね、こうやるの」とひねり方をゆっくり見せたんですが
何せその子にとっては初めての体験だったもので、手首の使い方、どう動かすと蛇口がひねれるのか分からなかったようで、しばらく奮闘してました。
その姿を見て

そっか…
人間って、体験したことない動きはできないし、難しいんだな

と感じさせられたのです。

自動って、とっても便利だけど
子どもにとってその便利さは、むしろ発達の邪魔になってしまうな~
手を使う、身体を使う機会を減らしてしまうから。

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【自分の身体を思い通りに使えるようになりたい】運動の敏感期は4歳頃までですが、
【手を思い通りに使えるようになりたい】旬の時期も確実にあります。

それは運動の敏感期と平行して0~4歳頃まであり、さらにその先、5歳半頃まで続きます。

この時期を過ぎると、手を使うことが、楽しいというよりはどちらかと言えばめんどくさい、億劫だと感じてしまいます。
旬の時期に手を使うことが少なく、できる動きが少ないとなおさら。(私まさにこれ)

だからこの時期に、生活の中でたくさん、いろいろな手の動きを体験して、楽しく繰り返して身につけることを、モンテッソーリ的にも、個人的にも、強く強くおすすめします。

モンテッソーリは手を使うことについて次のように言っています。

「子どもの知能は手を使わなくてもある水準までは達するのですが、手を使う活動によってさらに高い水準に達します」

「環境の特殊な状況によって子どもが手を使えない場合、従順でいられず、積極的でなくなり、不精で陰気な性格になってしまう」

「自分の手で作業できた子は、明瞭な発達と性格のたくましさを示します」


…なんか、けっこう厳しいこと言ってるように聞こえるかもしれませんが、


私個人的には、それこそ環境の特殊な状況(アルジェリアという居住地や、目が悪く細かい作業をさせられなかったという身体的事情、これは母の愛ともいえる)によって
【手を使う旬の時期を逃した】自覚がものすごくあり

それとは別のところで
(頭で分かってることと、実際の行動が、何でこんなにもスムーズに繋がらないんだろう…っ)
という、【頭と身体が繋がらない】ことに対する何とも言えないもどかしさを、
大人の今までかーなーり長いこと抱えていたので

モンテッソーリの「手と知能、手と性格の関係」を知ったときにこの
・手を使う旬の時期を逃したこと

・頭と手、頭と身体が繋がらないもどかしさ
が結びついて、ものすご~く腑に落ちたんです。


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山ほどある、もどかしさを感じる場面のひとつが、お裁縫関係。

ほんっっっとに不器用で、まず糸を針に通すところからかなり苦戦します。無事に通せたとして、玉結びが綺麗にできる確率は3割程度。あとは何あの、糸がピローンとなっちゃう感じ。くそぅ…

そこから始まり、波縫いがやっと、でもお約束通りガッタガタ。
まつり縫い?何度教わってもすぐ忘れます。
ステッチ?意味が分かりません、子どもにも教えられません、モンテッソーリの先生になってからも逃げまくり、必殺「○○先生が上手だから聞いてごらん♪」ごまかし攻撃~
ミシン?まず糸の通し方がさっぱり何のことやら、奇跡的に通せたとして、あれ手を一緒に縫いそうで…って北島マヤか!(ここは伝わる人だけでいい)
編み物?くさり編みとやらを何度教わったことか…10目くらい編む間に肩ガッチガチ、指ピッキピキ、何かいろんなとこつりそう、何でくさり編みごときで全身が疲れるんだよ、どんな全身運動だよ、でもそんなに苦労して教わったのにもう再現できません
指編みも何度子どもに聞いたことか、あげくの果てに
「K先生はできないんだって、他の先生に聞こう♪」
ごまかし攻撃見破られてるし!あぁそうですよできませんよ!悪かったな!何てったって旬の時期逃してるからな!
「Kさんって頭はいいのに何でこんな簡単なことできないの~(キャハハー)」
ってそのセリフ、今までの人生で何度聞いたことか!ふふ、教えてやろうか…手と頭が繋がってないからだよ!その理由がモンテッソーリでやっとわかったよ!(もはや何キャラ)



…勢いで書いてみたけど最後、性格が卑屈になって逆ギレする勢いなのは、そんなに大げさではない気がする。もちろん公衆の面前では平静保ってるけど、このくらい心穏やかでないことは確かです。
ぎこちない、もどかしい自分にイライラ募らせるこの感じ、誰か分かってくれるかなっ。(ヤケクソ)

お料理も、つい最近までこんな感じで、ずーっと避けて通ってきました。これは結婚して、ほんとにイチから始めたらやっと楽しくなってきた。けど凝ったものを作る気にはやはりなれず…ごめん夫 むしろ何でもおいしく食べてくれることに感謝。

その他、生活の節々で、「えっどうしたのどうしちゃったの」ってことをやらかしたときはだいたい、頭と手が繋がってないときです。我ながらヒジョーにもどかしい。

ゆえに、思い通りにできなくてイライラする子どもの気持ちもよく分かります。

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手を使う旬の時期は、感覚器、脳、随意筋(自分の意思で動かせる筋肉)の3つが1セットで急速に発達するときです。
人間の身体は

感覚器(で受けた情報が)
→脳(に届き、その情報を元に出た指令で)
→随意筋(が動く)

という3つ1セットで働くしくみになっています。

例えば落ちてるゴミを拾うひとつにしても

目(で落ちてるゴミが見える)
→脳(がゴミを認識し、拾えと命令し)
→手(がゴミを拾う)

の流れが常にあります。

この3つ【感覚器、脳、随意筋】は幼児期にあらかた完成する(!)ので、
この完成までにフル活用して、よりよい器官を作ろうとするのが、
運動の敏感期や感覚の敏感期、手を使う旬の時期のパワーです。

特に手を使う活動は、この3つ1セットをフル活用する、絶好のチャンス。

逆にこの時期に手を使う体験が乏しいと、【感覚器、脳、随意筋】が発達しきれないまま、その完成を迎えてしまいます。

ここに、手と知能の関係が表れます。

知能というとお勉強ができるできないの話ばかりになりがちですが、そうではなく
感覚器が受けた情報をどのように処理して随意筋に伝えるか、
生活していく上での【情報処理能力】全体のことを指します。

(ぁぁーここ低いわー 自覚あるわー( ノД`)



さらに手を使うことで、着替えや身支度、食事など、自分の身の回りのことがスムーズにできるようになると
それは子どもの中で強い【自信】となり、今度はその自信でもって、自分のできることで他人の手助けをする、という【社会性】のところにも繋がります。

逆に、幼児期に自分の手を使って身の回りのことができるようにならなかった場合、どんなに他の面で優れていても(例えば勉強がすごくよくできたとしても)、どこか根本的なところで自信が持てず、

結果として強気なタイプの子は虚勢を張るという形をとり、弱気なタイプの子はいじけがちになる、というのが
自分を含めて様々なお子さんを見てきた中で、実感としてあります。

ここに、手と性格の関係が見える気がするのです。

(ぁぁー私弱いタイプだったわー お勉強だけできてたけど、どこかいじけてたわー
途中から強気なタイプになって、でも結局虚勢だったわー)


もちろん、この時期を逃しても、人間が手を使おうとするのは一生続くことなので、
気づいた時点から努力すればカバーできることもたくさんありますし
好きこそものの…で、大きくなってから始めたことを極めることだってできます。

また、自分ができないこと、苦手なことを他の人にカバーしてもらう、お互い様にカバーし合えるのがまた人のよさでもあります。

ただ、旬の時期というのは、何でもそうですが、
労力をいとわない感が半端じゃないなのは確かです。
手を使いたくてしょうがない、繰り返し何度も手を使っても全く苦でなく、面倒でもなく、むしろ喜び。このパワーを活かさない手はないと思います。

また、カバーし合えるのは自身が虚勢を張っていない、またはいじけてない状態であればこそで
手を使えなかったことで性格のそれらの部分が強調されて現れてしまうと、カバーし合える人間関係を築くこと自体が難しくなりがちという現実もあります。

人格の土台を作る乳幼児期だからこそ、その土台を強くしっかりしたものにすべく、【手を使う】ことを意識したいのです。
以前に書いた、人格の土台となる2本の足のうち、自立の足を強く育てることに繋がることのひとつが、この【手を使う】ことなのです。

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自分のすることに静かなる自信が持てるかどうかって、小中高あたりまで無意識のうちに影響してたな~。誰か分かってくれないかしら、この感覚…
頭と身体、頭と手がスムーズに繋がらないもどかしさ、ぎこちなさを高校生あたりまでずっと抱えてました。大人になった今はネタに転用して何とかごまかしてるけど…いや、ごまかせてないかも…ふふふ


冒頭にも書いた通り、今は手を使うことを意識していないと、本当に手を使わなくてもいろいろできてしまう時代です。
字を書くことひとつとっても、このブログだって全部パソコンかスマホからです。スマホなんて使っているのは人差し指ひとつ。
筆記用具を持って、手を動かして字を書くなんて、ほんとご無沙汰になっていて、たまに字を書こうとすると漢字は出てこないわ、字そのものがイメージ通りに書けない、何だか昔より汚い字になってしまう、どこかぎこちないもどかしい感じです。

恐らく今の子達よりは手を使ったであろう大人ですらこれだから、ましてや成長途中の、全自動に囲まれた今の子どもたちは…と思うと、


手を使う旬の時期に、どう手を使うか

ということに、大人がもっと意識を向けても損はないと思うのです。


で、肝心の「手をどう使うか」が書けなかったので、次回に続く。
長いんだよ!いつもだよ!ごめんなさいね!
(今日はなぜか最後まで逆ギレモード)