モンテッソーリアン、里親になる。

10年モンテッソーリ教師をやってみて向いてないことが分かった(笑)ポンコツモンテッソーリアンの里親活動奮闘記録。

【追記あり】吸収する時期に、改めて大人が心に留めておきたいこと

先日、モンテッソーリ関係の友達が務めている保育園の実態を聞く機会がありました。

その中で、一部の保育士の子どもへの接し方があまりにも、私的な感情が入り過ぎていて
(それって…しつけという名目の虐待なんじゃ…
 私が親だったらこの園には入れたくない…)
と感じてしまうエピソードがいくつもあり、
実際にそこに通っている親子のことを思うと、とても残念で悲しくてやるせない気持ちになってしまいました。

友達も「それはおかしい、違う、虐待ですよ」とその保育士たち数人や園長先生に何度も直接掛け合ったそうです。
が、本人たちには聞く耳をもってもらえず、逆に友達がその人たちから嫌がらせを受けるような形になってしまい、本人も辛いとこぼしていました。

そして何より、友達に対する威圧的な態度と全く同じように、子どもたちにも威圧的に接していて、子どもたちが理不尽に泣かされたり、大人の顔色を伺ってビクビクしているのを毎日見るのが辛いと。

お迎えに来た保護者の方にもネガティブなことばかり伝えるので保護者の方も萎縮してしまい、相談どころか園での様子を聞くことも遠慮している。

園長先生はというと、保育士が足りないから辞められたら困る、だからおかしいと感じてはいても強く言えない、とのこと。


…なんじゃそりゃーーーーー!!!
ふんがーーーーー!!!(怒)


前回の記事でも書きましたけど、吸収する時期に子どもが周りの大人からどういう扱いを受けるかというのは、人格の土台が作られる上で大きく影響するので特に大切にしたいところなんですが、
プロの保育士ですら、ほんの一部の人とはいえ、その大切さが分かっていないなんて…と、もどかしく、悔しく、切なく思います。

友達から聞いた保育の具体的内容をここに書き殴りたい乱暴な気持ちはすごくすごくあるのですが、
それではただの愚痴で終わり、読む方にも不安な思い、嫌な思いをさせてしまう。そして何も前向きなものを生まない、非生産的な内容になってしまう。

と思ったので、ここでは

吸収したものが【人格の土台を作る】、特に大切な乳幼児期に、大人が心に留めておきたいこと

あかねやモンテッソーリの専門学校で教わった、私が心の宝にしていることを、書こうと思います。

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ある年少さんの子が、毎日のように、お友だちを叩いたりひっかいたり蹴ったりして、傷つけてしまっていた時期がありました。

理由は小さな日常のできごと、例えば「並ぶ順番は常に一番がいい」など、その子の中で強いこだわりがあり、
それが叶わなかったときや思い通りにならなかったときにカーッとなってしまい、お友だちに手が出てしまうというパターンでした。

カッとなる速さと激しさが日に日に増して、あまりにも毎日のように、時には一日のうちに何回も起こってしまうので、
園長先生を始めとする保育士全員で、その子にどう対応していけばいいか、話し合いました。

そのとき、園長先生が最初にお話して下さったことが、今も忘れられません。

「まずは私たち大人が、絶対にその子を叩いたりしてはいけない。」

「例えその子が他の子を叩いて傷つけてしまったとしても、その『罰、しつけとして』という名目でその子を叩くということを、私たち大人は絶対にしないように」


「その子が他人から叩かれたら、自分も人を叩いていいんだと思ってしまうから。
その子の世界から暴力をふるわれる体験を消さないことには
お友だちに暴力をふるうことが決してなくならないから。

特に吸収する時期は、
周りからされたことがその子の中で良しとなってしまう、
『人は叩くものだ、私も人を叩いていいんだ』
という認識がその子の中にできあがってしまうから、

そうならないように、まずはこの子の世界から、暴力の体験を消す努力を、最大限しましょう。」


このようなお話を、真剣に強くしっかりとされた園長先生のそのお姿に、子どもに対する深い、並々ならぬ愛情と、真摯に向き合う姿勢を感じ取りました。


それを大前提として、
お友だちを叩いてはいけないということを淡々と伝え続ける、
手は人を叩くためにあるのではないよとお話する、何のために手を使うのか話し合ったり、手の使い方を生活の中で一緒に実践していく、
その子がカッとなる前に、そうなりそうな状況を取り除く努力をする、
などの対策をとる。

このような認識を、保育士全員でシェアした上で
保護者の方ともお話し合いをして
ご家庭の中でも、その子が叩かれる、暴力をふるわれるという体験をなくす努力をして頂くようにお願いしました。

これは決して、そのご家庭で虐待が…? ということではなく、例えば
「兄弟ゲンカでその子が叩かれる」
など、日常の中で起こりうる暴力の体験を、その子の生活から消す努力を最大限してほしい、という意味です。
その子は小学生のご兄弟がいたので、難しいかもしれませんが、ご兄弟のお子さんにも協力してもらって…という話をしました。

そして園でも、例え「手をペチン」ほどの、大人からしたら(暴力?)と思えることでも、決してしないようにと全員が心がけました。


正直、私も短気なので、その子が暴れたり、私がその子に叩かれたり蹴られたりひっかかれたりすると、こちらがカッとなりそうなことが全くなかったわけではありません。

でも、それでも絶対に手を出さない
手を出してしまうのはこちらが未熟だから
こちらが手を出してしまったら、またこの子が他の子に手を出してしまう
してはいけないことを伝えるのに、大人が感情に任せて手を出す必要はない
と自分に言い聞かせて言い聞かせて必死でした。


今思い返すと、何に必死だったかって
「自分の短気な心とたたかう」
のにです。
結局そこなんだな、と痛感しました。

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「あなたにとって一番手のかかる大変な子どもこそが、あなたを変えてくれる大切な存在なのよ。
いつも子どもが先生よ。子どもから学ぶの」


あかねの園長先生を始め、今まで出会ってきた、素敵だなと思える先生は必ずこうおっしゃいます。そしてご本人もそこをしっかり心に留めて、実践されています。

子どもから学ぶ謙虚な姿勢を忘れたら、大人は子どもにとって、ただの傲慢な存在になってしまいます。
特に乳幼児期の子どもは、大人がちょっと恐い顔をしたり、大きな声で脅したり、力ずくでねじふせたりして、簡単に屈させることができてしまうんです。

そういう理不尽な扱いを受けた子どもにとって、周りの人は信頼できる存在ではなく、恐怖の塊です。

恐怖が先に来てしまうと
人を信頼するなんてもってのほか、
自分の感じること、することにも自信が持てなくなり、感情を素直に表に出せなくなり、
自己肯定感、「私は私でいいんだ」という、自分を基本的に信頼し肯定する気持ちを持つことが難しくなります。

乳幼児期に自分や他人への不信感を抱かせられてしまったら、それが人格の基礎となってしまい、その後長いこと、人を信頼できず、自分を肯定できず、自分の感情を押さえつけて、人間関係がうまく作れないまま育つことになってしまいます。

これは大人しい子のパターンで、もし元気な子の場合、大人からの理不尽な要求に激しく反発し続けなければならなくなります。これもまた、つらいことです。

そんな悲しいことにならないためにも、
大人は子どもから学ぶ謙虚な姿勢で、子どもの心に寄り添い、基本的な信頼関係を築けるよう援助していく。
その努力は常に、むしろピンチの時ほど必要だということ。できてもできなくても、その努力はし続けていこうという心の持ち方。

これらのことが今でも、私の心の宝物になっています。


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冒頭の友達の話で何が悔しいかって、
今関わっている子ども達の将来の姿に、今、理不尽な関わり方をしている保育士は責任をとる機会がないということ。
その子達にとっては、一生に関わる問題なのに…

でももしかしたら、その保育士さんたちも、幼い頃に理不尽な、威圧的な育てられ方をしたのかもしれません。もしくは、今現在、自分の心がすさんでしまう事情があるのかもしれません。あくまでも推測の域を出ませんが。

だとしたらなおさら、どこかでその負の循環を止めなければいけない。

友達本人は職場で嫌がらせにあって辛いかもしれないけど、子どもたちのために何とか踏みとどまってほしい。
今やっているように、子どもたちの心に寄り添い続け、子どもたちにたっぷりの愛情を注ぎ続けて、子どもたちが基本的な信頼感や自己肯定感を持てるよう、その成長を見守り続ける存在であってほしい。精神的な暴力も含めた負の循環を止める役割を担ってくれたら…と陰ながら願います。
その役割はすごくすごく疲れますし、傷つきますし、かなりのパワーを必要とすることなので、友達本人が倒れないようにとも願いつつ。

そういう希望的存在の人がひとりでもいると、そこから子どもの見方、考え方、大人(を含む環境の)あり方について、共感してくれる人が少しずつ増えていって、少しずつその職場全体がよくなっていきます。

特に子どものいる現場は、子どもがまずよい方向に変わり、それを見た大人が変わっていく、という流れができやすく、大人だけの職場よりもいい方向に変わりやすいんです。

実際に、友達に共感する保育士さんも増えてきて、友達にいろいろ聞いてきてくれたり、威圧的な保育のやり方はおかしいよね…という雰囲気になってきているとのこと。
保護者の方も、こっそり友達に、子どもの園での様子を聞いてきてくれるそうです。

ほんとに、あと少しで、もっとよい方向に変わりそうな気がするのです。

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保育園が足りない、保育士が足りない、
待機児童の問題で、保護者は子どもにとっていい保育園を選べる立場にない、
それどころか、どこかに入れさえすれば御の字、という現状。

だとしたらなおさら、保育のお仕事に携わる一人ひとりが、子どものことを真剣に考え、保育の質を落とさないよう、真剣に取り組む必要があると思います。
(そして国や自治体もその真剣に取り組む保育者の方々を真剣に支えてもらいたいです。特に待遇の面で)

いや、でもね、たぶん多くの保育者の方は真剣に取り組んでるんですよきっと。ほんとに一部の人の一握りの例だけだと思います。と信じたいです。


でもこの一部の威圧的な保育のやり方を知ってしまったことで
私が実習で行かせてもらった園やあかねの環境は当たり前だと思っていましたが、実はとても幸せな環境だったということに、気づかされてしまいました。

すご~くすご~く複雑ですが、友達が今の園で踏みとどまってやれることをやり続けているように、私も今できることを(このブログで発信することも含めて)やり続けていこうと決意を新たにした次第です。

次回からはまた、子どもの見方の話に戻ります。

【追記】
この友達から後日改めて連絡がありました。
「辛かったのは夏頃までで、今はだいぶ働きやすくなってきている、
園長先生も、このままでいいとは思えない、と個別に注意アドバイスをするようになって、理不尽だった保育士さんたちも少しずつ変わってきている」
とのことです。

「常に謙虚な姿勢で保育にのぞんでいないと、自分がお山の大将になっちゃうね」
という言葉が胸に響いたのは、私がこのブログ内でお山の大将になっていたからかもしれません。