モンテッソーリアン、里親になる。

10年モンテッソーリ教師をやってみて向いてないことが分かった(笑)ポンコツモンテッソーリアンの里親活動奮闘記録。

目的と手段と結果を混同するな

というのは世間でもよく言われることですが、

子育て関連や教育関係でここを混同してしまうと
最終的に被害を受けるのは子ども。

ということを、私たち子どもに携わる者は
しっかり心にとめておかないといけないなと思います。


また木村先生語録から失礼しますと、

「いい学校を作ろう!
という目的が最初から大人の頭にあると、

例えば、大声で学校中を走り回るような子どもに出会ったときに
『この子がいたら、いい学校が作れない』
という排除の考えがぜったい出てくる。

でも、いい学校って、誰にとっての?
って掘り下げて考えたときに、
教師でもない、教育委員会でもない、
保護者でもない、
その学校にいる子ども。
子どもにとって、いい学校を作りたいわけですよね。

子どもにとっていい学校っていうのは
その学校に来ている子どもが
安心して来られて、学べるところ

そしたら、さっきの排除の考えが
矛盾してるなって気づくわけです。

すべての子どもが安心して学べるところを作るため
この目的のために

目の前の子どもが、何に困ってるのか。
その困ってることに何ができるのか。

その手段を考えるのが
その学校にいる教師としての最低限の役目であって、
パブリックの学校の最低限の仕事。

目の前の子どもが変わったら、困ってることもひとりひとり違うでしょ。
そしたら「何ができるか」っていう手段も変わるでしょ。
その手段にはマニュアルがない。子どもひとりひとりが違うから。
子どもから学ばなきゃぜったいに分からない
んです。

そういうことを、
子どもから学びながらやり続けてきた結果
不登校ゼロ、特別支援学級ゼロ、モンスターペアレンツゼロの
いい学校ができた。というだけのこと。」



いじめ問題もそうなんですけど
いじめをなくすという目的で作られた法案や条例や方法が

「こっちの学校はいじめなし。OK!」
「ここの学校ではいじめあり。失格!」
みたいな評価主義のために

いじめがあったこと自体を学校が隠してしまって
最悪の結果になる

っていうこと多くないですか。

結果としていじめがなくなるには
その途中の手段として
いじめがあったらその時点でオープンにした方が
少なくとも、エスカレートすることはないと思うんです。
いじめてる側も周りの目を気にするから。

で、周りも
「この先生は自分のクラスでいじめがあったことを打ち明けてくれた!グッジョブ!」
「ここの学校はいじめがあったことをオープンにした!グッジョブ!」
って反応する方が、先生側も、学校側もオープンにしやすい。
結果としていじめが減ると思うんです。

このいじめゼロ、いじめ防止のそもそもの目的
すべての生徒が、安心して学校で学ぶ
だと思うんです。

その大きな目的のための、
ひとつの結果であるいじめゼロというところを
最初から目的に設定するから

なかったことにしてしまったり
担任ひとりの責任にしてしまったりと、
手段を間違えて、

本末転倒な結果になってしまうと思うんですね。
時には子どもの命が失われるほどの。

そういうニュースを見るたびに
目的と手段と結果を混同してる人たちが
あまりにも多すぎる。と感じてしまうのです。




で、モンテッソーリ教師のブログなので
ここからはモンテッソーリ関連の話。


私自身は
モンテッソーリ教育
=目の前の子どもに合わせたカスタム教育
くらいに思っているので、

モンテッソーリ教育に合わない子どもっているよね」
という話になると
ん??? と思ってしまう人です。

それって、モンテッソーリ教育という型があって
そこにハマる子と、ハマらない子がいるってことだよね…
それってなんか違う…

確かに、モンテッソーリの先生になるための勉強の一つに
200以上あるプログラムのやり方を身につける
というのはあるけど

そのプログラムが1個もハマらない、
「君のツボはどこだー!w」みたいな子どもにも
今まで会ったことあるけど

そしたらその子をよく観察して
その子のツボに合ったプログラムを
その子だけのプログラムを
考えればいいのよ。

と尊敬する先生から教わりまして
あぁそうか、その通りだわと思ったわけです。

子どものためのモンテッソーリなんだから。

目の前の子どもが
心も体も自分らしく、伸び伸びと育つ
それをお手伝いするための
モンテッソーリ教育。

そのために、目の前の子どもをよく観察したり
子どもの発達段階を学んだり
その発達に合った環境を学んだりして
また目の前の子どもと照らし合わせる。
そしてその子に合った環境を用意する。

それがモンテッソーリだと私は思っているので
モンテッソーリに合わない~」な話になると、
とたんに無口になります。
(その場で言えよ!w
ほんと、話し言葉での自己表現がヘタクソだな我ながら!)


これも、
「子どもが自分らしくよく育つ」という目的のための
手段としてのモンテッソーリなのか
モンテッソーリ教育をすること自体が目的に来てしまっているのか
その違いなのかなぁと思いました。

モンテッソーリをやること自体が目的だと
そりゃ排除される子どもが出てくるわな。
でも子どもを排除してる時点で
そもそものモンテッソーリの目的から外れてること、
早く気づいてほしい(誰にだ

と人にいう前に
自分も混同してないか、日々チェックだな…