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モンテッソーリloverのブログ

モンテッソーリ大好き教師の綴りごとです。

木村先生語録(ほぼ自分用)

今日(18日)の交流会でいちばん心に響いたこと
(録音してたわけではないのでニュアンスで)

「障害のある子たちが、
 学びの場から分離されることで
 健常と言われる子たちが
 一見安心して学べるように見える
 かもわからんけど
 
 分けたことで、健常児たちが
失った学び』がどれだけ大きいか。
 分離しろいう人たちにはそこが見えてへんねん。
 失われたものがどれだけ大事か、
 そっちの方を議論しなきゃあかんで。」


「教師の専門性はな、教科指導やないねん。
 そんなの学校じゃなくてもええし、
 何なら機械がやってくれる時代が
 もうそこまで来てる。
 じゃあ人間じゃなきゃできないことって何?
 って考えたらな、

 教師の本来の専門性は
『目の前の子どもをどう分かろうとするか』。

 自分を分かろうとしてくれる人が
 ひとりでもおったら
 その子は生きていける。」



交流会+今までの講演会や本や映像で心に残ったこと

「一見、障害児に優しい、
 障害児のための学校に見えるかもわからんけどな、
 大空(小学校)でいちばん得してるのは、
 実は健常児と呼ばれる子たちやねんで。
 何でかわかる?

 まず、世の中には、自分とは違う人、
 いろーんな人たちがいるということが
 一緒の空間で過ごすことで、
 理屈じゃなくて肌感覚でわかる。
 肌で吸収するから、『みんな違う』が当たり前になる。
 『私はこう思ったけど、
 この子はこう思ったんやな』
 が普通になる。
 
 その(障害がある)子たちが、
 いつもわぁわぁ大きい声出しよる中でも
 どんなにうるさい中でも、
 集中して学ぶ力がつく。

 わからん子に、
 自分がわかってることを教えながら
 『あれ、うまく教えられんわ。
 ってことは自分もわかってないなこれ』
 って言いながら、もう一回学び直しながら、
 相手がわかるように伝えようとする

 全部、これからの社会で生きていくために必要な力やろ。
 だってこの子たちが大きくなって社会を構成していくんやから。
 
 でもこれを、最初から
『この子は発達障害、この子は知的(障害)、この子は健常』
 って分けて切り離してたら、
 こういう学びはぜーんぶ、
 最初から捨ててるのと一緒やん。
 これって、めちゃくちゃ損やで。
 
『この子がこの教室にいて何を学べるんだろう』
 って思われるような障害のある子が、
 ただ同じ空間にいてくれることで、
 周りの子がどれだけたくさんのことが学べるか。
 子どもだけやなく、大人も。
 それを大空の9年間で、
 これでもかというほど教えてくれた」


「障害のある子や、何か問題を抱えてる子が
 安心していられるところなら、
 そうでない子だって安心していられるところ、ってことやろ。
 
 障害のある子が理解できるなら
 そうでない子はもっと理解できるやろ。

 その(障害のある)子たちが生きやすい場所が
 みんなにとっても生きやすい場所ってことやん。
 シンプルやろ?」


「『発達障害』という言葉があるから
 みんなそのくくりで止まってて、
 それ以上考えようとせんねん。見事に思考停止。

 試しに発達障害という言葉を使わないで、
 子どものことを表現しようとしてみ。

・うちの子は、みんなと一緒に何かをするというのが苦手なんです
・うちの子は、大きな音が嫌いで大きな音がすると逃げ出してしまうんです
・うちの子は、鉛筆持ってよう字が書けんのです
・うちの子は、いつも同じやり方やないとパニックになるんです

 いろんな表現ができるやろ。
 今言ったひとつひとつのことって、障害か?
 その子が困ってることってあるか?

 あるんやったら、その困ってることがなくなるように
 ひとつひとつ向き合っていけばいいだけのこと。
 
 こういうことをひとつひとつ丁寧に考えることをやめて
『〇〇障害だから』で終わらせてしまってるのが大人。
 これって差別以外の何物でもないやろ。
 この考え方が、同じ空気を吸ってる子どもに伝わって
 子どもの思想を作るんやで。
 こんな怖いことってないやろ。
 その最たるものが、あの相模原の事件やんか。

 だからまずは大人の意識が変わらなあかんねん。
 子どもが変わってほしいじゃなくてな。」


こんな感じかなぁ。
関西弁が温かくて親しみやすさを増していました。

聞けば聞くほどモンテッソーリとの共通性が山盛りなんだけど
それが私の文章で伝わってるかどうかは謎…