モンテッソーリアン、里親になる。

10年モンテッソーリ教師をやってみて向いてないことが分かった(笑)ポンコツモンテッソーリアンの里親活動奮闘記録。

そのルール、子どもにとって本当に必要ですか?

という考え方が、今の職場に来てからのくせになってしまい、
我ながら、この組織の中では私は厄介者だなぁと感じておりますw


前回ご紹介した
「21世紀を生きる力」(木村泰子・出口汪共著 水王舎)にも
既存のルールの意味を問うくだりがあります。

(以下、引用)
例えば、『授業は行儀よく椅子に座って受けるもの』という固定概念に縛られていると、授業中に子どもが椅子に座ろうとしない場合、教師はその子どもに対し、半ば強制的に座らせようと指導しがちです。(中略)
 こうしたケースではその都度、そもそもの目的を考えてみる必要があります。
 授業中、子どもに求められる本質は何か。それは、椅子に座ることではありません。授業の内容を聞く、または授業に参加することが目的のはずで、極端に言えば寝っ転がっていてもその目的は達成できます。

 ある時、落ち着いて椅子に座っていられない1年生の子について、ある6年生の子が次のように話してくれました。
「あの子な、椅子嫌いなんやって。家に椅子ないから、ずっと座ってるのが落ち着かんのやって」

中略)行儀とか作法以前に、椅子にじっと座っていることが困難な子どもも少なからずいる、という視点を持ちさえすれば、指導の形は自然と変わります。それが、個に応じた対応をするということです。
 まさに、こうした瞬間、大人の価値観や固定概念、そして都合を子どもに押し付ける教育をしてはいけないと思うのです。

(中略)
日ごろから自分の指導について、その目的を明確に自身が理解し、納得して子どもたちの前に立つ必要があるのではないでしょうか。

(引用終)


ここを読んだとき、「こういう考え方の上司の下で働きたい…」と痛切に感じてしまった。w
っていうか、あかねはこういう上司だらけだったんだよ~
幸せだったな…


つい最近も、事柄としては小さなことですが、ありました。
「そのルール、どうしても守らなきゃダメ?」ってことが。

1歳児がおやつを食べるときに、
前はテーブルクロスを敷いていたのですが
最近はそのクロスを子どもたちが手でグシャグシャするのがブームでw、
(楽しいんでしょうね、気持ちはわかりますw)

だったら敷かないで食べればいいよね
子どもたちもそんなにこぼさなくなってきたしね

ってことに、現場の先生たちの間でなりました。

そこに、不規則シフトで入る、組織の古株先生が久しぶりにやってきて
「だめよ、テーブルクロス敷かなきゃ」
と一言。

思わず
「何でですか?」
と聞いてしまう私たち。

そして、これこれこういう経緯で敷かなくなりましたって説明しても

「だめよ敷かなきゃ。
そう決まってるんだから


…出~た~~~~www


決まってるんだから。
ルールだから。
規則だから。




だからなんでそのルールが必要か
って聞いてんだろが!!!




あぁ失礼、取り乱しました。
こんなことだらけなもんでね…いやいや失礼失礼。
答えになってないし嚙み合わないからさ…

で、このあとクロスを敷いた1歳児のところにこの古株先生がついて
「手はおひざだよ、おひざ!」
「ぐしゃぐしゃしない!」
「誰が上手かな~?誰ができるかな~?」
とずっと口うるさく言っていました。

悪い先生じゃないんだけどね…
うるさいんだよね正直www

これだけ逐一口うるさいと、
先生がついてないと
何も考えられない、何もできない子どもが育ちそう。
(実際ほかの系列園では指示待ちっ子が続出な事実…)

子どもは大人が管理するもの
っていう固定概念からもう離れられないんだな
と感じます。


だからその管理のために、
おむつ取れないと2歳児クラスに上がれないとか
いったんトイレトレーニング始めたらもう二度とおむつに戻れないとか
意味不明なルールがいっぱいできるんだな…
そしてそのルールができたら
もう見直すことがないんだろうな…


残念!!!


(でも上の2つは少なくとも変えていきたいよ~
そのチャンスを虎視眈々と狙ってる人がここにいるよ~w)



今までのルールが、本当に子どもにとって必要なのか、
逆に子どもの自然な発達や成長を妨げているのではないか

という視点を持てるということは、
子ども一人一人に、柔軟に対応できる力につながるんだなと感じたので
私はおそらく、今の組織ではまだまだ厄介者であり続けそうです…w