モンテッソーリアン、里親になる。

10年モンテッソーリ教師をやってみて向いてないことが分かった(笑)ポンコツモンテッソーリアンの里親活動奮闘記録。

しんどいときの呟きパート2

再び体調を崩しております…( ノД`)
おい、私のホルモン!
(中山きんにくん風に読んで下さい 
ってこういうこと言う余裕はあるんだな…)

こういう、自分の身体が言うこと聞いてくれない時って、自分でもすごくもどかしくて
人様にもご迷惑をおかけしてしまうことが多いので(本日の予定3件全てドタキャン ぬおぉ~)
心のどこかで、自分で自分を責めてしまいます。

その一方で
(身体が休めと言っております、しょうがないんです、すみません)
という開き直ったふてぶてしい部分もどこかあり、でも何に対してかよく分からない罪悪感も少し感じながら、横になっています。

で、横になっているとこう、いろいろ考えるくせが始まるわけで…


子育てや教育現場でも
子どもが思うようにはなってくれなくて、
自分ではない他人なんだから思うようにならないのが当たり前なんですけど、必死だとついそれも忘れて
時には子どもを責めたくなったり、そうでなければ大人の自分を責めたくなったり、もしくは自分ではない大人の誰かを…ということも少しはあると思うんですが、

「責め」は何も生まないな
責められている人や、責めている自分が
よりいっそうつらくなって追い詰められるだけだな

誰か、何かを責める時間と頭を

「今の状況を変えるために、
自分には何ができるだろうか」

という方向に使う方がいいな

と感じます。


そう感じるようになったのは、あかねに勤めて2~3年目くらいからです。

ほんと今思い返すとイヤな感じなんですが、
モンテッソーリの知識を得すぎて
目線や考え方が完全に子ども寄り、
どんなときも子どもの味方!
みたいになってしまっていたイヤ~な時期がありました。

その弊害は主に2つ。

①子どもに強く言えなくなった(必要なことすらも)
②子どもに強く言う大人を責めたくなった


①の「子どもに強く言う必要があること」は、

他人や周りのものを傷つけてはいけない
他人の嫌がることはしない
自分を大切にする

の3つで、ここは今日は割愛。
むしろ大事なので後日詳しく!
(出た~ いつ書くんだよシリーズ)

②の「大人を責めたくなった」ことについて。
これほんと、我ながらイヤな感じなので、あんまり書きたくないんですが
でもこの私のイヤなところを直してくれたのは他でもないあかね子どものいえなので、感謝の気持ちと自戒の念を込めて書き残します。


あかねに勤めて1年目、2年目あたり。
モンテッソーリの知識を得て子どもと楽しく関われるようになってきて、おそらく調子にのっていたんでしょう、

子どもはこういうものだから、こうしたほうがいいよ、これはしちゃダメだよ

という子ども側の都合ばかりを、意気揚々と周りの大人に伝えていました。

あれ、今も…? ですね。苦笑

ただ、今とそのときと絶対的に違うのは、

目の前の大人の方のご事情や現状を理解する
その上でできることを助言するよう心がける

という点です。
ブログだと一方通行なのでここが一番難しいんですが、
少なくとも実際にお会いしている、対面している大人の方については、ほんとにここを意識するようになりました。

何がきっかけという大きなできごともなかったんですが
個人面談を始め、お子さんの日々のことを親御さんに伝える機会が多くあった中から
園長先生や先輩の先生方の、親御さんへのお伝えのしかたや姿勢をたくさん見ているうちに

お子さんのことを大切に思う気持ちと同じくらい
その親御さんのことも思う気持ちが、必要なんだな

それがないと、いくら子どものためと思って伝えたことも、伝わらないな

子どものためと思うならなおさら、
こちらが伝えたことがなかなかできない親御さんのことを責めるのは逆効果で、むしろ
現状をふまえて「どうしたらいいか」を
一緒に考えて一緒に頑張るという姿勢が必要なんだな

というのが徐々に見えてきたのです。


例えば、これはあかねのご家庭ではないですが

「早寝早起きしてくださいね、お子さんのために」

と伝えたそのお母様自身が、実は身体のご事情で朝起きるのがとにかくつらいんです…ということがありました。

早寝早起きは正論ですが、その正論をこちらが振りかざし
「できない自分が悪い」とご自分を責める凶器にしてしまった例です。

正論が相手を傷つける凶器になることがある
ということを、心の片隅にずっと置いておこう…と思います。


モンテッソーリの理論は、子どもを見ていたら
(あぁ、本当にそうなんだな、正しいんだな、なるほどな)
と感じることの連続ですが
その理論通りの正しいことができない場面なんて実生活ではざらで、
むしろできることがあったらラッキー!くらい、
子育てというのは予想外のこと、大変なことの連続で(すよね、きっと)

そのときに、できない大人を責めるのではなく
どうしたらできるか、今できることは何か
という目線でいる

【親子がともに育つお手伝い】ができるようになれたら
本物のモンテッソーリ教師になれたと言えるような気がします。
そういった意味でも、生涯勉強だな~。



毎日のように、子ども関連の悲しい事件が毎日のように飛び込んできて
ネットでそのニュース欄を見ると「親が悪い」「周りの大人が悪い」「親の資格ない」などとコメントが並んでいるのを見ると

そうです、確かにしてしまったことについては、その大人が悪い、
それはもちろん正論だけど
その正論を振りかざしたところで、してしまったことが取り返せるだろうか
他の同じような事件が解決するだろうか
むしろ他の親御さんは、そのような世間の声に
知らず知らずのうちに追い詰められていないだろうか
責めるのは誰でも簡単にできるけどそうじゃなくて
【子どもを育てる親御さんを、周りの大人が見守り、手助けする】
その気持ちで温かく見守ったり、ピンチの時には手伝ったりできるようになったら、
本当の意味で子どもにとっても子育て世代の親御さんにとってもいい社会になるんじゃないか

だって責めは何も生まないから。

と感じるのです。


ほら~また長くなった~


昨日の記事も長々と
「子どもはこういうものですよ、だから大人は(環境を)ああしましょう、こうしましょう、これはしないように」
といろいろ長々と書きましたけど
他の記事も全部そうですけど

大人を責めたいわけでも追い詰めたいわけでもなく
やってみたら大人がまず楽になって、その結果子どももよくなりました
というところを目指して書いてるつもりです。

というのだけ、お伝えしておこう…


次こそは「手を使う 3~6歳 意識的吸収期編」書けるかな~