モンテッソーリアン、里親になる。

10年モンテッソーリ教師をやってみて向いてないことが分かった(笑)ポンコツモンテッソーリアンの里親活動奮闘記録。

子どもを見ること、子どもを知ること、そのバランス

昨日は、急遽保育のヘルプのお仕事が午前中だけ入り、それはもう嬉しくて嬉しくて、いそいそと赴きました。
現場はやはり楽しく、やりがいもあり、学ぶことも多々あって心底心満たされたわけですが
半面、身体の方はぐったりでした(苦笑)。

ひさしぶりとは言え、現場から半年離れただけでこの疲労感…
この日だけお預かりする新規のお子さんたちが最初泣いていたこともあり、私自身も(…どうしよう、どうすればいいの、そもそもこの子達のこと何も知らないし)と戸惑いもあり。

今回お誘い下さった先生に
「勝手の分からない場所と子どもたちに苦戦して、意外と疲れました」
と思わずこぼしてしまいました。苦笑

でもそこでその先生が優しく返して下さった言葉がとても印象的でした。

「私も4人は勝手の分からない(普段預かっていない新規の)子達よ~、一緒一緒♪」

と前置きした上で、

「そういうときはね、子どもが何をしてるかをまず見るの。そこからこちらが何をしたらいいか考えたらいいのよ。何も難しくないわ」


…それ、モンテッソーリの基本中の基本じゃないか。
抜けてる…半年離れただけで…ちーん



そうなんです、モンテッソーリでは【子どもの観察】がまず第一。
目の前の子どもが、今どんな動きをしているか、どんなものに夢中になっているか、何を嫌がるか、何を自分でやりたいと願っているのか、など
子どもをよく見て、現状を見極めた上で

じゃあどんな環境があればいいか、これは今この子が自力でやりたがっていることを妨げるんじゃないか、大人はどう振る舞えばいいか、ここは大人の手は必要ないのでは、
など、子どもの自立に向けて対策をたて、実践してみるというのが常です。

思えば学生時代の勉強でも、社会人になってからのお仕事でも、「傾向と対策」を考えるというのは常につきものなわけですが
それは対子どもでも一緒なんだなぁと、改めて感じます。

子どもの現状という「傾向」に大人がどう「対策」を立てていくか、その結果どうだったか、その繰り返しの積み重ねで自立を目指すのが子育てだったり教育だったりということなのかな、と個人的には思います。

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これから、例えば敏感期のことも含め、「このくらいの時期の子どもはこういう特徴が云々」という、発達のことに関して書く予定です。
(書く書くって言いながらなかなか書けない…詐欺だ!笑)

これは傾向と対策の「傾向」の部分、子どもを知るのに必要な知識であることは確かなのですが、
その情報にとらわれすぎず、ご自分の目で見たお子さんの姿を大切にして頂きたい、という思いも同時にあります。

というのは、あまりにも知識にとらわれすぎていると、逆に不安に思ったり焦ったりすることが少なくないからです。
特に「時期」の情報に関しては、あくまでも目安です。皆が皆、そこに当てはまらなければいけない、ということではありません。

(このくらいの時期はこうじゃないのか、うちの子どもは違う…)
(同い年くらいの他の子はできるのに…)
などの不安や焦りの声は本当に多く聞きますし、そのお気持ちもすごく分かります。


いちばん大切にしたいのは
「今、目の前の子どもがどうなのか」
ということです。


現状を受け入れられず、知っていることに当てはめようとしたり、こうあってほしいという姿にムリヤリ近づけようとしたり。
それでは本末転倒で、子どもも大人も苦しくなってしまいますし、関係も悪化しかねません。



専門学校を出て、現場に入った初期の私がまさにこれでした。
そして元々頭でっかちなところがあるので、ちょっと現場から離れると、今回のように基礎の基礎【目の前の子どもを観察する】が抜けるということになってしまいます。反省。

あかねの4年間の現場で、
発達のペースは子どもそれぞれ、それは子どもを見ることでしか分からないということ。
大人はそのペースをどうこうすることはできない、だからどう寄り添い、どうしたらお手伝いできるかという点だけに集中すればいいこと。
を学ばせて頂きました。

ちゃんと知っておいた上で、目の前の子どものことをしっかり見ることが、子どものお手伝いの第一歩。
知ることと見ることのバランス、お互いを生かせるのがいちばんいい。
そんなことを思い出させてくれた、今回の現場でした。