モンテッソーリアン、里親になる。

10年モンテッソーリ教師をやってみて向いてないことが分かった(笑)ポンコツモンテッソーリアンの里親活動奮闘記録。

はじめましてのご挨拶

子どもの年齢に関係なく、
たとえ0歳でも1歳でも
初めて出会ったときには

「はじめまして。〇〇です。よろしくお願いします」

大人にするのと同じように、丁寧に挨拶をすると、
子どもが心を開いてくれるのが早い気がします。

今週に入ってからは、
慣らし保育を終えた子どもたちと
初めて顔を合わせることが続いていたので
ほぼ毎日、「はじめまして」とご挨拶。


もうすっかりなついてくれています。
早い。w

ひとりの子は、名指しで「〇〇先生、すき」と親御さんに伝えてくれたそうです。
嬉しい。


「はじめまして」の意味がわからない子どもでも
自分が人として尊重されて大切にされているかどうかって
こちらの雰囲気や態度や口調で分かるんだよな
だから心を開いてくれるんだろうな

大人も油断しないで
日々の言葉やふるまいで、ちゃんと伝えないとだな

と感じている日々です。

大人が手をかけ過ぎない方が、子どもが伸びる説

というのが私の中にありまして、w

新年度になり、新しい先生方も増え、
年少~年長混合組計18人(去年度の新設園なので年長が少ない)のクラスに
なんと先生が4人もついております。

多すぎ!www


大人が多いと手厚くていいじゃない、

と一瞬思うのですが
一概にそうでもないようで。

子どもってすごく不思議で、
大人の手が余ってることが無意識にわかっちゃうんです。
そうするとよけいな甘えが出てきて
本来自分でできることでも、大人にやってもらおうってなるんです。
計算とかではなく無意識だと思うんですけど。不思議~


例えば、お昼寝明けの様子を見ていると
起床→着替え→帰りの支度→おやつ
という同じ流れでも

先生が4人ついているとき;
全員揃うまでの時間=1時間

先生が2人のとき;
全員揃うまでの時間=35分


大人が少ない方が早い!
やればできるじゃん!ってなりました。w

実はこの時間の差、年中組の動きの速さで変わってきていました。

1時間かかった日は、遅い子どもの中に年中さんが4人もいたのに
35分の時はゼロ。
年少組の動きはほぼ変わりません。

年中さんは、流れは今までと変わっていないし、年少さんの1年で着替えも身支度もだいぶひとりでできるようになってきたので、1時間はかからないはずなんです。
が、大人が4人もいればこうなるんだなと。
大人、逆に邪魔だなと。

年少さんはしょうがないよ、まだ初めてだから。そこはペースを見ながらつきあいます。その積み重ねで今の年中さんみたいになるのだから。一緒に頑張ろうね。

大人が手伝いすぎない方がいいこともある。というお話。


おうちでも、例えば下の子の世話に手を取られて上の子が「できない!」ってかんしゃく起こしていたら、それはもしかしたらその子が伸びるチャンスかもしれません。

「おとうさん/おかあさん、オムツかえてるから今はどうしても手伝えないの、ごめんね。自分でできるところまでがんばってみて。どうしてもできないところだけ、おむつ替えが終わったらお手伝いしに行くから、それまでがんばって」
と、なぜ今手伝えないのか、いつなら手伝えるのか、それまでどうしてほしいのかを言葉で伝えたうえで子どもがやろうとするのを待つ、というのも、子どもにとっては逆にプラスになるのかもしれません。

自分でやろうとしたことやできたことを一緒によろこぶ、というフォローは必要ですが、手をかけるだけが本当の意味での愛情ではない、というのを知っていると、本当に大人が手いっぱいの時も、変に罪悪感を持つ必要はないのかもしれません。

自分の手で、自分の意志で生活を営んでいくということ。

叔母が亡くなったり、母が入院したりということが続く中で
家に残された叔父や父が自分の食べるものの用意さえ苦労している姿を見ると、

自分の生活を自分の手で作っていくというのは
老若男女問わず、必要なことだと実感させられます。

女の子だから料理を習わせようとか
男の子だから家事はやらなくていいとか
それって結局、いつかどこかで自分の首を絞めてしまうような価値観だな、と。


別に凝ったものを作れるようにならなくてもいい、
味噌汁を作ったり、肉や魚や野菜を切って蒸したりゆでたりして
簡単なものができればいい。
でもそれさえも、今まですべてを妻に任せていた男の人にとっては、
わずらわしいことのようです。

自分の食事管理ができるようになるには、
小さいころから食材や調理に親しみ、
手を動かすことが苦じゃない、
わずらわしいと感じない、
このくらい普通にできると思えるような育ち方が
今後どんどん求められていくと思うのです。


という思いと、
1歳台からバターナイフを持ってバナナを切り、
年少さんになったら本物の包丁でスティック野菜を切り
年長さんの頃にはスイートポテトやパンケーキなど簡単な料理をする
今までの園で見た子どもたちの姿がリンクしました。

やっぱり大事なことなんだよなぁ。
自分の手で、自分の心で、自分の生活をたてていくということ。


新年度しょっぱなからやや重めの話になりましたが
今日も子どもたちの自立のお手伝いができるよう
精進してまいります。
(それどころじゃないかな~泣いてるかな~)

自分で選んで、考えて、決められることの幸福感

モンテッソーリ教師0-3コースの電話面談及び入学決定
→母の入院及び手術
→今の職場の卒園式
→叔母の葬儀
→前の職場の卒園式
→母の退院及び実家の家事手伝い 
 が発展してお引越しレベルの断捨離及び模様替え←イマココ

これ3月だけのできごとでして
身体は実家と今の住まいを往復、
心は喜びや感動と悲しみや不安との間を往復。

さすがの私もやられ気味w

ブログ更新もままならず(言い訳)すみません。
書きたいことはいろいろあるのになぁ。


とりあえず、病的なまでに物が捨てられなかった母親の、大病を経て起きた劇的な変化を通して

・自分で選べることは、嬉しい(今の自分に必要なものだけを取捨選択している)
・自分で考えることは、楽しい(どういう風に家で過ごしたいかをイメージ)
・自分で決めたことは、納得できる(捨てると決めたら躊躇なく捨てられる)

というのは老若男女問わず共通なのだなということをヒシヒシと感じています。
私もその手伝いができるのは、楽しい。

ということだけ書いて、今回はおしまい!
落ち着いたらまた更新します!(逃)

子どもを、ひとりの人間として尊重するということ

が根底にあるから、私はモンテッソーリをこよなく愛せるのです。


むしろこれが根底にあるならば、モンテッソーリに限らなくてもいい。
アドラー心理学だろうがイエナプランだろうが
ピースフル・スクール・プログラムだろうが、
とにかくどんなに小さな子どもでも「子ども扱い」せず、バカにせず、力で黙らせず、
ひとりの人間としてその思いや考えや言動を尊重できるなら、その手段は何でもいい

逆に、どんなに立派なことを謳っていても、
その陰で子どもをどついたり暴力をふるったり、大声でどなったり脅したりしていたら
それはもう、虐待です。
育っていく子どものそばに、いちばんいてはいけない種類の大人です。


というのを強く感じてしまうなぁ~最近のニュースを見ていると。
ねぇ森友さん。


で、残念ながら、とても残念だけど
体質としては、今の園も似通ったところがあるなぁと感じてしまうのです。


森友学園も今の園も、いや今の園は森友よりははるかにマシだけどそれでも、
大人の見栄や、大人が良いと思っていることの一方的な押しつけが最優先されているような気がしてなりません。

表向きではモンテッソーリを謳いながら、裏では食事中に絶対にトイレに行かせないとか、オムツが取れないと進級できないとか、子どもを人として全く尊重していないことをしてしまっているというのは、モンテッソーリを愛する者としては怒りしかありません。モンテッソーリがいちばん大事にしている、子どもの気持ちはどこへいった。


愚痴ついでにさらに愚痴ると、

年中さんの女の子で、気になる子がいます。
ちょっと注意されると、フリーズしてしまったり、パニックになってしまって泣き続けてしまう子がいるんです。

入園してからずっと気になっていたのですが、
先日お母さんがお迎えの時にぽろっと話してくれたことで、その理由が分かりました。詳しくはここには書けませんが。


で、そのことを園長に報告したときの第一声が

「それって、園の悪口とかではないんだよね?
おうちの中での話だよね?」

次いで

「先生、話聞いてあげて~」

で、終了。


結局、見栄か。
見栄えさえよければ、いいのか。

と、とってもガッカリしてしまいました。


前の職場だったら、
「〇〇ちゃんのこういう現状についてですが、おうちでこういうことがあるようです」
「それをふまえて、園ではどのように対処していきましょうか」
ということを丁寧にきめ細やかに話し合って
先生方全員で共有して、
ってことが当たり前だったんですが。

そんなことを今の園に期待した私がバカだった。
バーカバーカ(やけ)



5月から、もう一度、
子どもを一人の人間として尊重するということを学び直そうと思います。

絵本熱が、止まらない。

きっかけは、今の職場が開園したときに一冊も絵本がなかったので
BO●KOFF(隠れてない)を巡って100円か200円、高くても300円までの絵本や図鑑を買いあさったことなんですけども。

最初はそんなネガティブなきっかけで価格縛りで絵本を探しているうちに、
これが楽しいんだ宝さがしみたいで。あの山のような絵本の中からいい絵本を(しかもお安く)見つけたときのアドレナリンといったら。

えっ!この不朽の名作が100円でいいんですか本気ですか正気ですか後悔しても知りませんよ買っちゃいますからね的な出会いや
価格で選んだけどこれとってもいい絵本じゃない!今まで知らなかったのが悔やまれる的な出会いが満載で

購入して家に持ち帰った後、今の職場に持っていく前に自分の手元に置いて楽しみたいな…みたいな変な欲がでてきて
あまりにいい絵本だと見つけたときに同じのもう一冊買ったりして
さらに古巣(あかね)にも持っていきたくなってさらにもう一冊買ったりして

それも数冊でやめればいいのに出先でB●OKOFF見つけるたびに「ここではどんな絵本に出会えるかな♪」とか思いながら絵本コーナー漁ったりして(ひどいときには下の引き出しまでのぞく始末)


なんてやってるうちに気づいたら今現在、家に絵本が100冊以上あるな、今数えてみたら。あれ。おかしいな。
(注:筆者は子なし夫婦2人暮らしでございます)


あげくのはてに「絵本収納するスペースが足りない…絵本棚ほしい…」となって検索した結果、パソコン開くと宣伝バナーがおススメの絵本棚をガンガン勧めてくるというよくわからない状態になっている。(まだ購入までいっていないあたり最後の冷静さは失っていないと思っていますよ、えぇ)


と、ただ今絶賛爆発中の絵本熱ですが
爆発ついでにここで
「あまりにも気に入ったので複数冊買った絵本」
を勝手に紹介したいと思います。

いつも定価で買わず、絵本作家さんには申し訳ないことだよな…と常にうっすら感じているのでその罪滅ぼし的な意味も込めつつ宣伝も兼ねて。というのは建前で、ただ単に私が紹介したいだけです。


1冊目「はなをくんくん」

はなをくんくん (世界傑作絵本シリーズ―アメリカの絵本)

はなをくんくん (世界傑作絵本シリーズ―アメリカの絵本)

黄色い表紙が印象的なこの絵本。
中を開くとモノクロで描かれた森と動物たち。

冬の山で、何かのにおいを嗅ぎつけた動物たちが
少しずつ巣穴から出てきて
そのにおいのもとへ駆け寄ると…

最後のページの色使いに、もうそこまで来ている春への喜びを感じられます。
まさに今の季節にぴったり。


読み聞かせ対象は、3歳以降。
(1ページあたりの文章はすごくシンプルで短いので1歳~でも聞けそうですが、擬人化された動物が出てくるという理由で3歳以上にしています)



2冊目「ねむれないの?ちいくまくん」

ねむれないの?ちいくまくん (児童図書館・絵本の部屋)

ねむれないの?ちいくまくん (児童図書館・絵本の部屋)


まず絵柄に惚れ込む。優しい淡いタッチ。くまさんの目の描き方がまた優しさあふれる感じ。

夜、寝室の暗闇が怖くてなかなか寝つけないちいくまくんと、そのつど、言われたところを明るく照らし、ちいくまくんが怖がらないようにしてくれるおおくまさん。二匹のやりとりが愛情あふれていてユーモラスで可愛い。

それでもどうしても部屋のどこかに暗闇を見つけてしまい、怖くて眠れないちいくまくんにおおくまさんは…

夜眠る前の一冊におススメ。読み聞かせ対象は3歳以上。「はなをくんくん」よりは文章が長いですが、3歳なら聞ける量です。


3冊目「きょうは みんなで クマがりだ」

きょうはみんなでクマがりだ (児童図書館・絵本の部屋)

きょうはみんなでクマがりだ (児童図書館・絵本の部屋)

これはもともとあかねの保護者の方があかねに寄付して下さった絵本で、とても印象が強かったので自分用にも欲しいなと思ってたものの一つです。そういう絵本があかねにはわんさかあります。財産ですね…

クマ狩りに出かける家族に、道中、さまざまな障害が立ちはだかりますが、それらを何とか越えてついにクマに遭遇!しかし…


繰り返しの文章、徐々に大きくなる擬音、交互に来るモノクロページとカラーページ、眺めているだけでとっても楽しい。声に出して読んだらもっと楽しい。日本語訳の力も大きいですねこれは。

そして今気づいたけど、さてはクマの絵本に弱いな私。

でもこの絵本に出てくるクマは全然可愛くないよ!w 
むしろ怖いよ!

というわけでリアルさも含め、対象年齢は2歳以上。リズムが小気味いいので2歳でも伝わると思います。


4冊目「トムとピッポ さんぽへおでかけ」

トムとピッポさんぽへおでかけ

トムとピッポさんぽへおでかけ

そしてどうやら私、このヘレン・オクセンバリーさんという画家が好きなようです。これも今気づいた。

何が好きってね、基本、目が点で描かれてるんですよ。点なのに、ものすごく表情が豊かなんです。全体的な印象としても、リアルなのに温かみがあって大好きな絵柄です。


冬のある日、お母さんと一緒にお散歩に出かけるトム。お気に入りのぬいぐるみのピッポも一緒に。途中ころんで泥だらけ、帰ってシャワーを浴び、暖炉の前で温かい飲み物を飲みます。

と、夫曰く「絵本ってオチないんだね!」という内容ですがw、そうですこの時期の子どもにはオチなんて必要ないんです。日常の小さなひとつひとつのことが、大きなできごとなんですきっと。

絵本を読み聞かせてあげるとき、大人はついそこに込められた教訓とか賞罰とかオチとか気にしてしまいがちですが、そんなの一切関係ない、日常のちいさな一コマを丁寧に描いた良書です。

お母さんにしてもらったことをそのまま同じようにピッポにしてあげるトムの姿がとてもいとおしいと同時に「吸収する時期の子ってこんな感じだよな…」と要らぬ専門的目線で見てしまい、でもそれはさておき、トムの可愛らしさとお母さんの優しさに心温まる一冊。



5冊目「いっぽ、にほ…」

いっぽ、にほ…

いっぽ、にほ…

これもお散歩にでかけた親子の本です。

これはねぇ…感覚の敏感期の子どもってまさにこんな感じだよね!という絵本です。

さらに言うと、この感覚の敏感期の子どもといるお母さんのスタンスがこれまた素敵ですね!という絵本です。

散歩に出かけても、見るもの聞くもの触るものすべて初めての子どもは、なかなか前に進みません。
この絵本のお嬢さんもおそらく家からそう遠くへは進んでいない様子。一歩進むたびに「みて!」「あれはなあに?」とお母さんに尋ね、知りたがり、時には何かの物音に聞き入って静かに佇んだり。

それでも「なんてたのしいおさんぽだったこと」「ありがとう、かわいいこ。いろいろなものをおしえてくれて」と女の子に伝えるお母さん。
その時期しかない子どもの目線で一緒に物事を楽しめるって、なんて幸せなんだろう…という気持ちになりました。


わーもうきりがないからこのへんで強制終了しますが、書いていてあまりに楽しかったので近いうちにまたやります。

自立=誰にも頼らず自分ひとりでやる ではない

「そっか!そうだよね!間違えてたわ私!今までの子どもたちごめん!」
ってなった、自立の本来の意味。
友達から借りたオランダの教育についての本の中にあった一説です。

本の中では、ひとり暮らしのお年寄りを例に、自分でできないことは周りの人に頼んで生活しているという自立の形を紹介しています。

そう、
自分一人でできないことを周りの人に頼んだり助けを求めたりできるのも
自立の形のひとつ

なんですね。

私が今まで持っていた「自立」のイメージはというと、

・自分のことは自分でする
・人の手をわずらわせない
・人に迷惑をかけない
・人に甘えない

みたいな感じです。
間違えてた~~~

いや、もちろん上に書いたようなことも自立の形の一つだとは思いますし、自分のことが自分でできたらそれにこしたことはないけれど、生活全般について人様を頼らないなんてことは人生において不可能。

それよりも、

「私は今これをやりたい」という気持ちがあって
「私は今これだけのことがここまでできる」ということが分かり、
「だけど、残りのここは誰かに手伝ってほしい」という意思表示ができ、
周りとコミュニケーションを取ることができて
周りの人の支えも受けながら目的を達成できる、そういう風に生きていける

ということも、「自分でできる」ことと同じか、もしくはそれ以上に大事なことだと思うのです。


と、ここで今まで過ごしてきた園での声かけを思い返してみると;

子ども「先生、できなーい!」
先生「できないから、なあに?」←と敢えて聞く。あくまでも愛をもって
子ども「…できなーい…???(やや戸惑う)」
先生「できないときはね、『手伝って(下さい)』って言うんだよ」
子ども「てつだって(ください)」

という一連のやりとりはまさに
自分ができないときに人を頼る力を育てる
ためのものなんだな、と改めて感じております。


子どもと一緒に過ごしていると「できない!」と子どもが訴えてくることがとても多いのですが、これはただ単に子ども本人の状況を伝えるのみの言い方であって、すごく冷やかな表現をあえてしてしまうと、言われているこちらからしたら「そうなんだ、できないんだ。だから何?」ということです。

もちろん大のおとなですから、「できない!=手伝って!」ということは百も承知しております。でもここですぐ手伝わずに、「できないから、どうしてほしいのかな?」とこちらがどうすればいいかをあえて聞くことで、自分ができないことを人にお願いするときの言い方を子どもが知ることができます。


同じことを訴えるでも言い方ひとつで印象が大きく変わるのは言わずもがな。
実際これは、言われる大人側の気持ちがかなり違ってきます。
子どもによく言われるトップ3をあげて言い方を変えてみますと;

「できない!」→「できない!…から手伝って(下さい)」
「~やりたい!」→「~をやりたいから、〇〇をちょうだい/下さい」
「〇〇!」(お絵かき、粘土、お水など、やりたいことや欲しいものの固有名詞のみ)
→「〇〇をちょうだい/下さい」

(最後の固有名詞だけを言われるとどうしても「どんな亭主関白か!」とツッコミたくなり、でもあくまでも心の中にとどめつつ笑いをこらえているのはここだけの話)


自立の意味を上のようにとらえていた私は大人になった今でも、というか大人だからこそ?自分が人に何かをお願いしたり甘えたり頼ったりというのが苦手なので、子どもと一緒にお願いのしかたを練習している日々という方が近い。w

自立のとらえ方が変わったことで自分の中の呪いも一つとけそうな気がする。