モンテッソーリアン、里親になる。

10年モンテッソーリ教師をやってみて向いてないことが分かった(笑)ポンコツモンテッソーリアンの里親活動奮闘記録。

自立=誰にも頼らず自分ひとりでやる ではない

「そっか!そうだよね!間違えてたわ私!今までの子どもたちごめん!」
ってなった、自立の本来の意味。
友達から借りたオランダの教育についての本の中にあった一説です。

本の中では、ひとり暮らしのお年寄りを例に、自分でできないことは周りの人に頼んで生活しているという自立の形を紹介しています。

そう、
自分一人でできないことを周りの人に頼んだり助けを求めたりできるのも
自立の形のひとつ

なんですね。

私が今まで持っていた「自立」のイメージはというと、

・自分のことは自分でする
・人の手をわずらわせない
・人に迷惑をかけない
・人に甘えない

みたいな感じです。
間違えてた~~~

いや、もちろん上に書いたようなことも自立の形の一つだとは思いますし、自分のことが自分でできたらそれにこしたことはないけれど、生活全般について人様を頼らないなんてことは人生において不可能。

それよりも、

「私は今これをやりたい」という気持ちがあって
「私は今これだけのことがここまでできる」ということが分かり、
「だけど、残りのここは誰かに手伝ってほしい」という意思表示ができ、
周りとコミュニケーションを取ることができて
周りの人の支えも受けながら目的を達成できる、そういう風に生きていける

ということも、「自分でできる」ことと同じか、もしくはそれ以上に大事なことだと思うのです。


と、ここで今まで過ごしてきた園での声かけを思い返してみると;

子ども「先生、できなーい!」
先生「できないから、なあに?」←と敢えて聞く。あくまでも愛をもって
子ども「…できなーい…???(やや戸惑う)」
先生「できないときはね、『手伝って(下さい)』って言うんだよ」
子ども「てつだって(ください)」

という一連のやりとりはまさに
自分ができないときに人を頼る力を育てる
ためのものなんだな、と改めて感じております。


子どもと一緒に過ごしていると「できない!」と子どもが訴えてくることがとても多いのですが、これはただ単に子ども本人の状況を伝えるのみの言い方であって、すごく冷やかな表現をあえてしてしまうと、言われているこちらからしたら「そうなんだ、できないんだ。だから何?」ということです。

もちろん大のおとなですから、「できない!=手伝って!」ということは百も承知しております。でもここですぐ手伝わずに、「できないから、どうしてほしいのかな?」とこちらがどうすればいいかをあえて聞くことで、自分ができないことを人にお願いするときの言い方を子どもが知ることができます。


同じことを訴えるでも言い方ひとつで印象が大きく変わるのは言わずもがな。
実際これは、言われる大人側の気持ちがかなり違ってきます。
子どもによく言われるトップ3をあげて言い方を変えてみますと;

「できない!」→「できない!…から手伝って(下さい)」
「~やりたい!」→「~をやりたいから、〇〇をちょうだい/下さい」
「〇〇!」(お絵かき、粘土、お水など、やりたいことや欲しいものの固有名詞のみ)
→「〇〇をちょうだい/下さい」

(最後の固有名詞だけを言われるとどうしても「どんな亭主関白か!」とツッコミたくなり、でもあくまでも心の中にとどめつつ笑いをこらえているのはここだけの話)


自立の意味を上のようにとらえていた私は大人になった今でも、というか大人だからこそ?自分が人に何かをお願いしたり甘えたり頼ったりというのが苦手なので、子どもと一緒にお願いのしかたを練習している日々という方が近い。w

自立のとらえ方が変わったことで自分の中の呪いも一つとけそうな気がする。

気持ちを整える

先日、古巣(あかねこどものいえ)に遊びに行ったら、まーそれはそれはおだやかな、愛に満ちた空気に満たされていて、心も身体も浄化されたような気分になりました。

そして改めて自分が殺伐とした空気のなかで過ごしていて、ものすごい邪気にまみれていることに気づいてしまったのも事実(^^;


「大人の方が、気持ちを整えて子どもに向き合うっていうのはとっても大事よね。
子どもの関係ないところで、大人どうしでバチバチやってると、人間だから自分のなかで感情は繋がってるでしょう、そうするとどうしても保育にも影響してしまうのよね。子どもと、愛に満ちた気持ちを持って相対するには、大人どうしの関係もとても大事なのよね」


と園長先生。
ほんと、そう思います…( ノД`)

自分でも気づかないうちに、殺伐とした気持ちで雑に子どもと接してたなぁと省みる。それでも今の職場の中ではマシな方(自分で言っちゃうのも何ですが)だというのもまた何とも言えず(^^;


いいパティシエになるにはおいしいケーキをたくさん食べてたくさん研究すること
まずいケーキをいくらたくさん食べても、いいパティシエになるには程遠い

というのを何処かで見たけれど、保育もそういうことなんだろうな~と感じます。
いい保育の場にいるだけで、そのいい空気感を吸収できる。

私はよくも悪くも周りの影響を受けやすいタイプみたいなので、今の職場の空気感の中に身を置くのはもう潮時なのかもしれません。
次はあかねみたいな空気感のところがいいな…いつでもどんな場面でも子どものことを何よりも大切に思っていて、先生方も皆、子どもの自立と成長のために尽力されていて、それが先生方のいちばんの楽しみで、つまり真の子どもファーストの園。


余談ですが、プロの保育者ですら気持ちを整えることが必要なんだから、子育て中の親御さんにももちろんそれが必要なんでしょうけど、子育て期間こそそれが難しいんだろうな、ワンオペ育児ならなおのこと、とも感じました。



気持ちを整える。かぁ~
大事。

集団遊びと自己中な時期の関係

あっという間に2月も半ば!早いね。早すぎる。何してた最近の私。おそろしい。


子どもたちも進級や卒園を控え、去年の4月から約1年たつ今、いろいろな成長を見せております。楽しい。


最近は、年長年中さんを中心に、「だるまさんがころんだ」「オオカミさん今なんじ」、かくれんぼ、鬼ごっこといった集団遊びが楽しめるようになってきました。


こういう「一定のルールがある集団遊び」が楽しめるのは、子どもたちを見ていると4歳~4歳半過ぎてからのようです。

逆に、3歳~3歳半頃までの「自己中な時期」には、こういう遊びはまだ難しかったり、あまりやりたがらない様子。学年で言うと早生まれの年少さんあたり。


まず自己中心的な時点で、ルールに従いにくい。
鬼になりたくない、次は私が鬼がいい、ルールを無視してそんなワガママなこと言ってたら仲間に入れてもらえません。ゲームが成り立たないからです。

この状態になると、
①「じゃあ私違う遊びする!やーめたっ」
と言う子と
②「誰も遊んでくれない~」
と言う子に分かれるのですが
②はフォローが必要です。
(①はいたってマイペースなので、ある程度は安心してみていられる)

フォローがないと(あったとしても)
「今日は誰も遊んでくれなかった」
的なことを親御さんに話すからです。

当然、親御さんは心配になって
「うちの子、こんなこと言ってたんですけど大丈夫でしょうか。
 いじめられてたりしませんか?

となります。

ここで親御さんへのフォローも必要になります。


自己中な時期が誰にでもあるということとその時期、
集団遊びというのは、実はその時期のお子さんには難しいこと、
集団遊びをするためには、自分がルールを理解して守れるようになることが必要なこと、
今あなたのお子さんはそのルールを守ることを遊びの中で実践的に学んでいる途中だということ
途中なので時には自分が我慢できなくなってルールに沿わない行動をしてしまい、他の子たちにはそれがワガママにうつってしまうこと
でも本人は、自分の行動が周りの気持ちを害してしまったことがまだよくわからないこと、
ルールを守って一緒に楽しく遊ぶ練習中なので、時にはこういうセリフも出てくるかもしれません、ということ
でもこういう中でルールを守るとか周りの人の気持ちも想像するという社会性が育っていくこと、
年少さんの間は誰でも(あなたのお子さんに限らず)多かれ少なかれこういうことがあるということ、

をお話するとたいていの親御さんは納得され、安心されます。


前の園でも私は年少さんの担当だったので
こういうことを話す機会は多かった気がする。

3歳半頃までは自己中心的な時期、その時期をみんな通って社会性が育つのはそれ以降
というのが普通に当たり前に知られるようになると
親御さんたちの心配も減るのかな~とずっと感じています。

オムツと進級の件

もー、サクッと書こうサクッと
もっとポジティブなこと書きたいし

「オムツが外れないと2歳児クラスにあがれない」
と言われた側の心理状況や発達段階を考えてみる。

1.子ども本人

まだ小さいから、自分だけ1歳児クラスに残らされてることが分からない=傷つかない

もしくは

「2歳児クラスに上がるためにトイレでおしっこがんばろう」って思う=やる気につながる

とか思ってたら大間違いなんだな

むしろ逆なんだな

2歳前後って自我が強くて自尊心がものすごく高い時期。
イヤイヤ言うのは
「私の考えもちゃんと聞いてちょうだいよ!あなたが勝手に決めないでよ!」
という自尊心の表れ。

そして大人が思う以上に、理解力がある。周りの人のこともちゃんと認識してる。お友達のお顔と名前も一致してる。ルールもそのつどだけど、認識できるようになっている。

だから突然、今まで一緒に過ごしてきたお友達と離されてしまうという状況、しかもその理由が「自分がトイレでおしっこできないこと」だというのは子ども本人がしっかり認識できてしまうし、そんなこと勝手に大人の都合で決められた日には自尊心がとても傷つく。

かといって、トイレでおしっこをするというのは、前にも書いたけど
・膀胱におしっこがためられる
・ズボンやパンツが自分でスムーズに脱げるようになる
・トイレに座るまでおしっこを我慢することができる
・トイレに座った時点で初めておしっこを出すことができる

とかいろんな条件をクリアしてやっと成功すること。身体の発達によるところも大きいんです。

それができないから進級できないなんて、子ども本人がどうしていいか分からない。
今まで過ごしてきた友達と一緒にいたいのにそれもできない。結果、とても傷つく。

しかも、早生まれの子に関していうと、
「おむつがおしっこで濡れて気持ち悪い」
という感覚が分かるようになるのが冬あたりなんですよ

冬のオムツはずしが他の季節に比べて不利なことは言うまでもない。

現に、オムツはずれてパンツで過ごしている子たちですら、寒いからトイレに行きたがらなくて、盛大におもらししまくってます。

産まれた時期の違いで、オムツが外れる時期にも影響が出る。

そんな自分の意志でコントロールできないことで、進級を妨げていいのか。そんなわけあるか。



ちなみに、何度も書くけど、「おむつ外れた子から年度途中でも進級OK」だったらいいんだよ!むしろそれは子どもの自立に任せた自然な流れ。

みんなが一律に4月に進級する中で、おむつを条件に進級できない状況があるっていうのが問題だと思ってます。



2.親御さん

imagine…想像してみて下さい…

「あなたのお子さんはオムツが外れていないので、2歳児にあがることはできません」

と言われたときの心境。


傷つくわ焦るわ、ぱっと思いつく限りいい心情ではない。


焦ってトイレトレーニング始めて、でもおもらしばっかりで、「うちの子だけどうして」って感じたり、「どうしてできないの!」って責めてしまったり。「私の育て方が悪いのかしら」って自分を責めてしまったり。しそうじゃないですか。あくまでも推測だけど。

「進級するためにがんばろうね!」
なんてポジティブな気持ちになんて、なれるわけないじゃないですか。

ちなみに、お子さんがいる友達や保育者にこのルールのことを話したところ、ほぼ全員が「えっーーー!!!」という反応でした。って当たり前か


親御さんの心理的負担が大きいと、その分子どもにもネガティブにはね返ってくる
というのは現場にいたらよく感じることです。

だから親子ともに笑っていられるような支援のしかたを保育者側は考えて実行していかなきゃならないとも感じてます。


あの、いいんだよ、園で布おむつを使用して、自然にパンツにつなげるお手伝いをするというスタンス自体は。子どもの自然な自立を促すという意味で。排泄が自立すると他の部分も自立できるから。

でもそれが巡り巡って、今回の進級ルールのように、親御さんの心理的負担になってしまったら、それはやっぱり不自然なんだと思うのです。



以上、当たり前じゃねーか的なことをつらつら書いてみましたが、書けば書くほど当たり前じゃねーか感がぬぐえなくてむなしい…大丈夫かこの園…

昨日もオムツの子を連れてトイレに座るよう誘ってみましたけど、誘った段階で「イヤ」とお断りされ、それでもいちおうトイレに座ってくれたのですが、出ませんでした。

そりゃそうだよね。まずは「ちっち、でた」って教えてくれるところからだよね。こっちが外そうとしたらダメよね。ごめんね。

ってなりました。

あーーーーーーーーーーーー!

「オムツがはずれなかったら2歳児クラスにあがれない」ルールの何がどう問題なのか

前回のお題にこたえていくシリーズ。
全部をまとめて書くと何日もかかってしまいそうなので
思いつくところからざくざくつづっていきます。


1歳児が2歳児に進級するために
オムツがはずれていることが条件とされることの
何が問題か。


産まれた時期や、身体の機能・発達の違いという
本人の努力や意思だけではどうにもならないことを理由に
私たちは子どもを差別します


という意思表示をしていることとイコールだということ。
たとえ本人たちがそういうつもりじゃなくても。

現に、今1歳児クラスでオムツをしているのは
1,2,3月生まれの早生まれの子どもたち。
(ほかの子たちは時に盛大におもらししつつ、パンツで過ごしています)


早生まれの子どもたちは進級直前に2歳になります。
一方で、4月生まれの子は、進級したらすぐ3歳になる。

2歳になったばかりの子と、3歳になる子の違い、
子育て・保育経験のある方ならよくわかると思います。


そこになぜ一律のルールを設ける必要があるのだ。


たとえばこれが、
「おむつが外れた子から順番に(年度の途中でも)2歳児クラスに進級OK」
という柔軟なルールだったらまた話は変わってくるのだけど、そうではない。



この「おむつ外れないと2歳児クラス進級NG」ルールをまじめに守る大人から
子どもが得る無意識のメッセージ

「産まれた時期の違い、身体の違いという
本人の努力や意思だけではどうにもならないことで
人を差別していいんだ」

ということ。

これが私個人が思ういちばん質の悪い理由です。

だから即刻やめていただきたい。
と感じるのです。


このメッセージを受け取った子どもや保護者側の影響についてはまた後日。



…にしても、書いてて「これって当たり前だよな。何でこんな当たり前のことを私必死に書いてるんだ」感がぬぐえないのですが。この無意識メッセージって横浜市教委の「150万おごりはいじめじゃない=おごりって言えば恐喝もいじめ認定しませんよ、私たちはいじめられている子を守る気ありません」に近いものを感じてしまう…モンテ云々の前に教育者・保育者としてアウト~☆

オムツがとれないと2歳児クラスに進級できないという今の園のルールに対して、モンテッソーリ理論で徹底的に抗いたい

ということを、ここ数日はずっと考えています。

なっがいタイトル通りなんですが、そして前にも書いたんですが、今の園には

「1歳児クラスの子どもは、おむつがはずれなかったら2歳児クラスに進級できない」

というルールがどうやら存在するようでして。
初めて聞いたときは驚きすぎて本気でポカーン状態

私個人としてはそのルールに違和感しかないし大反対なのですが、それが子どものためになると信じてやまない先生たちが大勢いるのが今の園の現状なので、
そうすることが、子どもの発達にどう影響を与えるかということを、モンテッソーリ含む発達理論に基づいて説明できるようにしておく必要性を今強く感じているわけでございます。
(説明したからと言って分かってもらえるかどうかはまた別の話ですが、それはそれとして)

モンテッソーリ教師養成コースの試験問題のようだ…


で、いざ考えてみると、主張したいことはある程度ぼんやり浮かぶんだけど、これを自分の言葉で理路整然と説明するとなるとなかなかうまくまとまらない。というわけで自分の勉強のためにもオムツが外れなさそうな子どもとその親御さんのためにも辞める前に全力出します。まとまり次第こちらで発表させていただきます!

「怒っちゃダメ」という呪いを解きたい2017

先日、高校の同級生とプチ新年会をしたとき、そこにいた人のほとんどが絶賛子育て中だったのですが

子どもを怒っちゃいけないと思ってはいる(んだけどどうしても怒ってしまう)」

子どもを怒ることに対して罪悪感を持っている人がとても多かったのが印象的でした。


っとちょっと待ってちょっと待って
子どもを怒っちゃいけないなんて誰が言った???


…と、世の中見回してみると、あぁそうね、確かに「怒らずに子育てする方法」とか「イライラにさよなら!子育て術」とか「お母さんもう怒らないで」みたいな子ども目線からのものとか、まぁそれはそれは山ほどある。私も過去にそんなこと書いていたな…と自省を込めつつ。


怒るってものすごくパワーがいるので、怒る側としてもできるだけ怒らずにいたい。できるだけ心穏やかに平和に過ごしたい。そのための「怒らずにいられる方法」とかだったら、むしろどんどん取り入れていいと思います。

でもそれがいつしか「どうがんばっても怒らずにいられない、私ってダメな親」というレッテルを自分で自分に貼ってしまっていた。自分で「怒っちゃダメ!」という呪いをかけていた。
(この呪いという言葉、「逃げ恥」由来ですがとても気に入っています)

それに気づいたら、その時点で「怒らない」ということをいったん手放して、「怒らないことを頑張る」ことをやめてしまおう!と思うのです。

なぜなら「怒らないようにがんばる」ことでよけい怒りたくなってしまうから。ダイエット中に甘いもの食べちゃダメと思ったらよけい甘いものに目が向いて今まで以上に食べたくなるのと同じです(そうか?)。



そしてこれはあくまでも私の持論ですが、常々感じていること。

そもそも子どもを怒っちゃいけないなんてことはない。


家族や親せきや園の先生など、子どもにとって身近な大人が怒るということは

「自分がどういうことをしたら相手がイヤな気持ちになるか」「どうしたら相手がイヤな気持ちにならず、じぶんのやりたいこともできるか」つまり価値観の違う相手とどう共生していくか

を子ども自身が考えて学んでいくチャンスでもあると思うのです。
(大人にとってもそのチャンスは一緒かも!と書きながら思いました。)


例)
・部屋でうるさく騒ぐ子どもにイライラして怒った
→自分では楽しいと思って騒いでいることが、周りの人は必ずしもそうでないことを知るチャンス
<こうとらえられたらもう一歩ふみこんでモンテッソーリ的発想>
室内ではどのくらいの声で過ごせばいいか、どこなら大声で騒いでもいいか、子どもが自分で考えられるような声の大きさや言い方に変えてみる(子どもが大声を出しているところにさらに大声をかぶせて怒るのってすごく疲れるし、大声を出す大人を見て育つから逆効果な気がするのです)

・部屋で走り回ったりソファから飛び降りたりして暴れまわる子どもをどなった
→自分がすることを同じ部屋にいる人がどう思うかを知るチャンス
<プラスモンテッソーリ的発想> 
どこなら走ったり飛び降りたりできるか一緒に考える&お部屋で集中して静かに遊べるものは何だろう?ブロック、粘土、パズル、切り紙、シール貼り、のり貼りなどなど


・公園で遊んでいて「帰るよ」と言ってもいつまでたっても帰らず「帰るって言ったら帰るの!」と怒りの形相で泣きわめく我が子を拉致するように抱えて帰宅。疲れる…
→大人が「こうするよ」って言ったら絶対そうするんだな…と子どもが感じ取るチャンス
<少し大きくなってからの応用>「帰るよ」に対して「やだ!」の一点張りで相手を怒らせるのではなく、「これだけやってから!お願い!」と交渉術を身につけられるようになるチャンス、自分で決めたことを自分で守ることを覚えるチャンス
<プラスモンテッソーリ発想>
・時計の針がいくつになったら帰るよ(目で見て分かる期限をあらかじめお知らせ*数字読める子限定)
・あと何をしたら帰る?(子どもに決めさせる
・帰ったら何して遊ぼうか。〇〇はどう?(今していることよりもさらに楽しいことを提案



まじめな人ほど「子どもを怒っちゃダメ」の呪いにかかりやすいのは、

怒る→子どもを傷つける、委縮させる、大人の顔色をうかがうようになる、子ども自身のやりたいという気持ち、自発性や主体性を阻害する、などのネガティブな結果ばかりを想定するから。ではないでしょうか。

でもこうして「怒っちゃダメ」の呪いが発生して、怒るのを我慢した結果、どこかで我慢しきれなくなって爆発、自分でも止められなくなる。

これを、怒る→子どもに人間関係を学ぶチャンスを与えるというポジティブな結果を想定。こういう発想なら怒っても全然いいんじゃないかと。むしろ怒り小出しにしていきまっしょいということを伝えていきたい2017(大げさ)