モンテッソーリアン、里親になる。

10年モンテッソーリ教師をやってみて向いてないことが分かった(笑)ポンコツモンテッソーリアンの里親活動奮闘記録。

子どもを変えるのは大人ではない じゃあ何?というお話

前回の記事があまりにもひどすぎて消去しました。
我ながらダサい

その消した記事の中でもちょろっと書いたのですが
今回は年長さんの、しかもタイムリーに今、手を焼いている子どもの話。

この年長さんを仮にWちゃんとします。女の子です。

- 手を焼く言動① 危険行為

・ロッカーによじのぼる
・椅子の上にのる
・そして踊る
・部屋の中は常に走る
・そして転ぶ
・何度注意されてもやる

最近の日々はこんな感じです。(サラッと書くなサラッと)

椅子の上で踊ったときは、足を踏み外して脇腹を強打し号泣。
うん、なんていうか、思いっきり自業自得なので何とも言えん…

年長さんという年齢もあり、
していいことダメなことの分別は本人の中にあります。
そこを敢えてやっている印象。

これはWちゃんの中で自己完結する(でもやめてほしい)言動ですが、
以下は周りとのトラブルにつながるもの。


- 手を焼く言動② なんとかして自分の思いを通そうとする 

例えば、Wちゃんが使いたいものを他の子が使っていると、力ずくで奪い取ります。もしくは、使っていた子がちょっと横に置いた隙にかすめ取ります。これがパターン1とすると、


- 手を焼く言動③ 思いが通らないときにキレる

いちおう「貸して」と言葉での交渉を試みるも
「今使ってるからダメ」とあっさり玉砕
→「なんでよ!今Wちゃんが使いたいのに!もうやだ!」
とキレて激しく暴れる。

ここで終わればまだかわいいのですが、
(…かわいいかな?)


- 手を焼く言動④ さらなる暴言をはく

パターン3.貸してもらえなかった恨みが募って発せられるのが
「Rくんいじわるだから、みんな近づかないで!」

自分の思い通りにならない子を、自分のテリトリーから外そうとするパターン。
さすがにこれはガッツリ叱らせてもらいました。

あとは、並ぶ順番はいちばんがいい、
新しいおもちゃはいちばんに使いたい、
は日常茶飯事です。


さて、どう対応したものか…
を考える前に、Wちゃんの言動をよく観察して分析することが必要です。


- 分析結果:自己肯定感が低い。自己承認欲求が強すぎる

なんとかして気を引きたい。
どうにかして自分を見てほしい。
そのためなら手段は選ばない。
(選んで~できれば選んで~)

それは自分という存在の価値が、自分の中で低いことの裏返しです。

「危ないことを敢えてする」はまさにこの典型的な例かと。

何でもいちばんがいい、自分の思いを何が何でも通したい
というのも、自己承認欲求が満たされていないから
だと感じます。

それを裏付けるかのように、
例えばその日のことをお迎えに来たお母さんに話していると
「ねぇ、今Wちゃんのことなんて言ってたの?
 Wちゃんがこんな悪いことしてたとかそういう話?」
と必ずしつこく確認に来ます。

悪いことしてる意識はあるけど
それをお母さんに言ってほしくないんだな…
と、その姿を見るたびに感じます。

自分という存在を否定されたくない
という思いが異常に強い。

だったらしなきゃいいのに…と大人は思うけど
そこが子どもならでは(?)の発想。
「気は引きたい、常に自分を見ていてほしい」んです。

といろいろ分析してみたところで、どういう対応が好ましいか。


- 対応① 行動と人格は分ける。やめてほしい行動だけを止める。人格は絶対に否定しない。

こうわかっていても、
意識していても
感情的に難しいときもあります。
そんなときは自分に言い聞かせる意味でも

「あのね、Wちゃんのことは大好きだけど、
今やったことはよくないよ」

とそのまま伝えるようにしてます。
人格は全肯定!行動だけ否定。をそのまま伝える。

これは子どもの言動にカッとなった大人(つまり私)にとっても
冷静になれる声のかけ方だと思います。


- 対応② よくない理由を自分で考えられるように声をかける

「なんでよくないと思う?」
と上の言葉に続けて本人に聞いてみることも
年長(6歳)という年齢だったら必要です。

「怒られるからダメ」
ではなく、
「友達が嫌な思いをするから」
「自分がケガをするから」
ということを、そのつど自分で考えて自分で気づく。

毎日毎日同じことで叱られていたとしても
その瞬間その瞬間、自分で考えて自分で気づく。

その瞬間、点と点がどうつながっていくかが
子どもの可能性です。(これは木村泰子先生語録)


- 対応③ 叱られる場面以外の日常生活の中で、自己肯定感をあげる

これがいちばん大事だと思うんです。

で、具体的に何をするか。

Wちゃんにぴったりの「お仕事」を探します。

Wちゃんが興味を持っていること、好きなもの、Wちゃんの手や体の発達段階(どういうことがどこまでできるのか)をよ~く観察して、

Wちゃんが「これやりたい!」と自分で選び

それを何度も繰り返して、

集中・没頭して

自分で納得して終える

そんなお仕事は何だろう。
これを探すのがモンテッソーリ教師の大きな役割。


この自己選択→繰り返し→集中→自分で終了
のサイクルの中で

子どもは、
自分で選べる喜び、
試行錯誤して何度も繰り返すうちに、今までできなかったことができるようになり、上達・洗練していく喜び、
自分の脳と心と体(手)がつながっていく、こうしたいと思ったことが実現できる喜び、
周りがどうであろうが自分のやりたいことに熱中する喜び、
自分のやりたいことを最後まで成し遂げる喜び
を得ることができます。

「自分はこれだけのことがひとりでできる」「これだけ頑張れる」

この気持ちと、実際にできる体(手)が
自己肯定感を底上げします。

そういえば前にも同じこと書いてた^^;

montessorilover.hatenadiary.jp


こういう体験ができるお仕事は何か、
それを子どもと一緒に探すのがモンテッソーリ教師の大きな役割。

年長さんともなると
プライドがあったり、自分一人でというよりも友達と何かやる方が楽しかったりで、いろいろと難しいのは確かなんですが。

それでも、この日々の地道な見えない努力によって
子どもの手を焼く言動が徐々に減っていき、
何より子ども自身が心穏やかに満たされた気持ちで生活していける
というのは、あかねの生活で実感しているので
(O先生がよく「お仕事なのよ、お仕事で変わるのよね」って口ぐせのように言ってたの思い出します)

Wちゃんにピッタリなお仕事は何だろう…
と外遊びやお部屋での遊びを見ながら考え、試す日々です。



余談ですが。
この「子どもを変えるのはお仕事」という発想がまったく通じないモンテッソーリ有資格者がいると思わなかったよ!笑 勉強し直してきて!マジで!また孤軍奮闘じゃねぇか!

モンテッソーリ的にNG?

「モンテ的には、ダメなの?」

という質問をよくされる。


こないだは

お昼寝から起きて、
着替え~帰りの支度~おやつ
という流れの中で、
寝起きが悪く、ボーッとしてる時間が長く
なかなか着替えない、いつも遅くなる子がいる。

これって、この子のワガママじゃないの?
ほっといていいの?
自分で着替えるのを待つべきなの?
早くやるように声かけしちゃだめなの?
それはモンテ的に?

というようなことを聞かれた。


…いや~…
モンテッソーリ的にダメというよりは、


おやつ以降は私ひとりで3~5歳児を見てるので
(10人未満なので余裕。
 むしろそれまでの先生3人体制が多すぎw)

ある程度の人数、着替えと身支度が終わったら
私は次の流れを作るべくおやつの準備に入る。

なのでその時点で着替えていない子は
見た目ほっとかれている。

けど、そうやってこっちが準備していると
その子が自分で周りの状況に気づいて、
さっさと着替えと帰り支度を済ませ
結果的におやつに間に合う。

だから私はそれでよしとしている。

それがいいかどうかは、わからないけど
ひとり体制だとそうせざるをえないし
結果的には自分で気づいてるし、
自分で着替えてお支度もして
おやつに間に合ってるなら、いいかな~

くらいに考えていたので、
改めてそんなこと聞かれて、逆に面食らった。


私ひとりで見ているという状況
その子の発達段階(自分でできない訳じゃない)と
こちらのその子への信頼感(ほんとに置いてかれると思ったら全力出せる、そして間に合う。とこちらが信じている)と

この3つの兼ね合いで、
結果として、私が何も声かけしないでほっといてる(ように見える)だけで
モンテッソーリ的に声かけちゃダメとか、そういうんじゃないんだよな~。

たぶんこの質問をした先生は、

自分でできることをさっさとやらないのはワガママだから、
そういうワガママを通さず、
声をかけたり促したりして
周りの流れに合わさせた方がいいんじゃないの?

と感じてるから、そう聞いたんだろうな。
というのはなんとなく感じた。

でも大人でも気分が乗らないときってあるしな。。。

それに何度も言うけど、子どもと状況によって、
こっちの動きなんていくらでも変わるから。
モンテッソーリのマニュアルがある訳じゃない。

人手があるなら声をかけた方がいい場合もある。
声をかけてもダメなときもある。
何もしない方がいいときもある。

といういろんな思いがばーっと駆け巡り
聞かれてすぐにはうまくまとめられず、
その時とっさに出たことばが

「子どもを動かすのは最終的には子どもの心だから」

というなんとも抽象的な答え…

もちろん納得いってない顔してた。
ですよね。笑



伝えるって難しい…

わかったつもりでもわかりにくい 秩序の敏感期

先日、3歳になるMちゃんが、
おやつを食べる前にしくしく泣いていたので
どうしたの?と声をかけるも無言。

もともとこの子は困ってしまうと黙るタイプのお子さん。
他の1,2歳児たちに手を取られていたこともあって
「何で泣いてるのか、お話したくなったら教えてね」
と声をかけて、そのままにしておりました。

1,2歳児クラス全員がおやつを食べ始めても
Mちゃんはまだしくしく泣いている。

もう1回、
「どうしたの?何で泣いてるの?」
と声をかけると

「…いす…」

とか細い声で答えるMちゃん。


よく見たら、Mちゃんのじゃなかった。


ごめん!!!


ここで、秩序の敏感期のおさらい:

・持ち物
・場所
・順序
・約束

などが、いつも同じであることにこだわる。
「いつも同じ」が崩れることが受け入れられない
→泣く、怒る、暴れるなどの行動で示す。

生後7か月頃から表れ始めて
ピークは2~3歳
3歳半~4歳過ぎたあたりから徐々に消え始める。

「いつも同じ」を手掛かりに
自分の認識する世界を広げ、深めている時期。

この時期の子どもにとっての秩序
家を建てる時の土台
または魚にとっての水に相当するくらいの大事なもの。

大人には、
こだわりが異常に強いように見えるので
「うちの子、大丈夫?」
「大きくなってからもこのままだったらどうしよう」
と心配したり
「そんな小さなことにこだわって!」
「どうでもいいんだよそんなこと!」
と怒ったりしてしまいがちだけど、
この時期の特性(いずれ消えることも含め)がわかると
大人のそういう感情が減って、
結果子どもとの対立が減る。

(おさらい終わり)


…ってわかってたつもりでも
なかなか見つけられなかったのが今回の件。

「失礼しました!気づきませんでした」
で済めばまだしも、
他の先生に
「そんなことで泣かないの!自分で言いなさいよ!」
と怒鳴られてて二次災害 orz

思わず
「ごめんね、気づかなくて。
 泣かなくていいから、言葉で教えてね」
とフォローに入ったよ!
先生が怖かったら言えるものも言えない

知識は実践に生かしてなんぼでござる。

目的と手段と結果を混同するな

というのは世間でもよく言われることですが、

子育て関連や教育関係でここを混同してしまうと
最終的に被害を受けるのは子ども。

ということを、私たち子どもに携わる者は
しっかり心にとめておかないといけないなと思います。


また木村先生語録から失礼しますと、

「いい学校を作ろう!
という目的が最初から大人の頭にあると、

例えば、大声で学校中を走り回るような子どもに出会ったときに
『この子がいたら、いい学校が作れない』
という排除の考えがぜったい出てくる。

でも、いい学校って、誰にとっての?
って掘り下げて考えたときに、
教師でもない、教育委員会でもない、
保護者でもない、
その学校にいる子ども。
子どもにとって、いい学校を作りたいわけですよね。

子どもにとっていい学校っていうのは
その学校に来ている子どもが
安心して来られて、学べるところ

そしたら、さっきの排除の考えが
矛盾してるなって気づくわけです。

すべての子どもが安心して学べるところを作るため
この目的のために

目の前の子どもが、何に困ってるのか。
その困ってることに何ができるのか。

その手段を考えるのが
その学校にいる教師としての最低限の役目であって、
パブリックの学校の最低限の仕事。

目の前の子どもが変わったら、困ってることもひとりひとり違うでしょ。
そしたら「何ができるか」っていう手段も変わるでしょ。
その手段にはマニュアルがない。子どもひとりひとりが違うから。
子どもから学ばなきゃぜったいに分からない
んです。

そういうことを、
子どもから学びながらやり続けてきた結果
不登校ゼロ、特別支援学級ゼロ、モンスターペアレンツゼロの
いい学校ができた。というだけのこと。」



いじめ問題もそうなんですけど
いじめをなくすという目的で作られた法案や条例や方法が

「こっちの学校はいじめなし。OK!」
「ここの学校ではいじめあり。失格!」
みたいな評価主義のために

いじめがあったこと自体を学校が隠してしまって
最悪の結果になる

っていうこと多くないですか。

結果としていじめがなくなるには
その途中の手段として
いじめがあったらその時点でオープンにした方が
少なくとも、エスカレートすることはないと思うんです。
いじめてる側も周りの目を気にするから。

で、周りも
「この先生は自分のクラスでいじめがあったことを打ち明けてくれた!グッジョブ!」
「ここの学校はいじめがあったことをオープンにした!グッジョブ!」
って反応する方が、先生側も、学校側もオープンにしやすい。
結果としていじめが減ると思うんです。

このいじめゼロ、いじめ防止のそもそもの目的
すべての生徒が、安心して学校で学ぶ
だと思うんです。

その大きな目的のための、
ひとつの結果であるいじめゼロというところを
最初から目的に設定するから

なかったことにしてしまったり
担任ひとりの責任にしてしまったりと、
手段を間違えて、

本末転倒な結果になってしまうと思うんですね。
時には子どもの命が失われるほどの。

そういうニュースを見るたびに
目的と手段と結果を混同してる人たちが
あまりにも多すぎる。と感じてしまうのです。




で、モンテッソーリ教師のブログなので
ここからはモンテッソーリ関連の話。


私自身は
モンテッソーリ教育
=目の前の子どもに合わせたカスタム教育
くらいに思っているので、

モンテッソーリ教育に合わない子どもっているよね」
という話になると
ん??? と思ってしまう人です。

それって、モンテッソーリ教育という型があって
そこにハマる子と、ハマらない子がいるってことだよね…
それってなんか違う…

確かに、モンテッソーリの先生になるための勉強の一つに
200以上あるプログラムのやり方を身につける
というのはあるけど

そのプログラムが1個もハマらない、
「君のツボはどこだー!w」みたいな子どもにも
今まで会ったことあるけど

そしたらその子をよく観察して
その子のツボに合ったプログラムを
その子だけのプログラムを
考えればいいのよ。

と尊敬する先生から教わりまして
あぁそうか、その通りだわと思ったわけです。

子どものためのモンテッソーリなんだから。

目の前の子どもが
心も体も自分らしく、伸び伸びと育つ
それをお手伝いするための
モンテッソーリ教育。

そのために、目の前の子どもをよく観察したり
子どもの発達段階を学んだり
その発達に合った環境を学んだりして
また目の前の子どもと照らし合わせる。
そしてその子に合った環境を用意する。

それがモンテッソーリだと私は思っているので
モンテッソーリに合わない~」な話になると、
とたんに無口になります。
(その場で言えよ!w
ほんと、話し言葉での自己表現がヘタクソだな我ながら!)


これも、
「子どもが自分らしくよく育つ」という目的のための
手段としてのモンテッソーリなのか
モンテッソーリ教育をすること自体が目的に来てしまっているのか
その違いなのかなぁと思いました。

モンテッソーリをやること自体が目的だと
そりゃ排除される子どもが出てくるわな。
でも子どもを排除してる時点で
そもそものモンテッソーリの目的から外れてること、
早く気づいてほしい(誰にだ

と人にいう前に
自分も混同してないか、日々チェックだな…

子どもに相談してみる という発想

前回トラブルの話を書きましたが
montessorilover.hatenadiary.jp

このトラブルが、大人が手薄な時に限って
同時に複数起こるのが、毎日の保育現場です。
(なんなんだろなあれ。試されてるとしか思えないw)

そうなると、例えばそこに私ひとりだった場合
ひとりでは全てのトラブルに同時に対応できなくなるわけです。

そんなときどうするかというと、

「あ、あっちでも誰か泣いてる!
誰が泣いてるんだろう、誰か見に行ってくれる人いるかなぁ~
先生、今いけないんだよなぁ~困ったなぁ~」

と誰にというわけでもなく、
大きいひとりごとのように声に出します。

そうすると、年長さんだったり、
時には年中さんだったり2歳児さんだったり、
とにかくその声をきいた誰かが必ず、
「行ってくる!」と飛んで行ってくれます。

仮にこの子をCちゃんとします。

Cちゃんが戻ってきて
「Aちゃんが泣いてた!」
私「そうなんだ!何で泣いてたかわかる?」
「聞いてくる!」
(また戻ってきて)
「Bちゃんにたたかれたんだって」
私「そりゃ大変だ。Aちゃん大丈夫かな。どこかケガしてるかな。
あっK先生が戻ってきた!K先生にAちゃんのこと、伝えてくれる?」
「分かった!」

などと思いっきり子どもの手を借りまくります。


終わった後、
「ありがとうね。Cちゃんのおかげで、AちゃんとBちゃん仲直りできたし、先生も助かった」
と伝えると、Cちゃんが何とも言えない嬉しいような誇らしげなような顔をします。


これは小さな例の一つですが、


大人はつい、自分が子どもにしてあげる発想になってしまうけど
そればかりじゃなくて
大人が困ったときや助けてほしいときには、
子どもにも相談したり、お願いしたり
助けを求めたりしてもいい。

そしたら子どもが
「自分が何かできること」を一生懸命考えて
実践してくれる。

そうやって子どもに助けてもらったら、お礼を伝える。

こうすることで大人が助かるだけじゃなくて
子どももそこでひとつまた成長する。

ということを、あかね時代のいつからか
感じるようになりました。

子どものために、私ががんばろう!
とか
子どものために、私に何ができる!?
とか
変な気負いがあると

できないとき(のほうが断然多いんだけど)に
子どもにとっては迷惑な結果になってしまって
本末転倒になる。

少なくともそれは減りました。


大人の子どものためにというのが
子どもにとっては迷惑な時もあるし
何もしない方が子どもにとってはいいこともある。
もっと言えば
子どもに相談した方が、大人よりも柔軟な発想で
斬新な答えが返ってきたりして
子どもにとって一番いい結果になることも多い。


私一人が頑張ってるときよりも
確実に子どもが育っています。


私一人の力なんてちっぽけなもんだ
これを教えてくれるのはいつも子どもたちです。
私の中での大きな財産の一つです。

トラブルが学びのチャンスになるって、どういうこと?

と言うのを、私なりの学びの例を挙げてみる。


例えば、園庭で遊んでいると
どこからともなく
「うわーん」と泣き声が聞こえてきます。

見るとAちゃんが泣いています。

そばにいって
「どうしたの?」
と尋ねると、

「Bちゃんが使っていたおもちゃをとった~(号泣)」

とのこと。

(毎回毎回、同じような例で申し訳ないのですが、
ほんとに毎回同じようなことでトラブルになる日々なのです)


「それはイヤだったね」
「Bちゃんにおもちゃ取らないで、返してって言いに行く?」

そしてBちゃんに、
「Aが使ってたから返して!」
と言います。

これはAちゃん側の学びです。

・自分がされてイヤなことは我慢しないで相手に伝えていいこと
・自分の気持ちを言葉で表現すること

をこのやり取りの中で学んでいます

Aちゃんに
「おもちゃ取らないで!返して。」
と言われたBちゃんが、

「今Bが使ってる!」
もしくは
「Bが使いたいの!」
と返したとき、
(8割超、こう返されちゃうんですよ、ええ)

Aちゃんが困った顔でこちらを見ます。

ここで大人が通訳に入ります。

1歳半頃~3歳半頃までの
「自己中心的なのが普通」の子ども
には

「あのね、Bちゃんが使いたくても、
Aちゃんが使ってたら取らないんだよ」
「使いたいときは『貸して』って言うんだよ」

と、
・自分がされてイヤなことは相手にもしない
・言葉で自分の要求を表す

ことを伝え、

3歳半以降の、自己中な時期を過ぎた子どもには
「使いたかったら、お友だちのもの、
取ってもいいんだっけ?」

・自分がされてイヤなことは相手にもしない 
という約束が守れているか、確認して
自分の頭で考えてもらう

ここはBちゃん側の学びです。


それと同時に
大人側の学びでもあります。

私が失敗から学んだことを羅列してみます。

例えば自己中心的な時期の子に対して、

①「何でお友だちが使ってるもの取るの!」

このときの子どもの答え:
「使いたいから!」

…シンプル~!

ってそういうこと聞いてるんじゃないんだよ!(怒)

残念ながらこの会話、まったく噛み合ってません。

大人の「何で!」は疑問ではなく責め文句です。
でも子どもには全く伝わりません。
気の強い子どもは「使いたいから!」と正直に答え
また怒られる。
弱い子どもは責め口調の時点で押し黙ってしまい
「何で答えないの!」と怒られる。

どのみち、「怒られた」ということだけが残って
伝えたいことが何にも伝わりません。


②「何でそんな意地悪なことするの!」

意地悪のつもりはないんです。
自分が使いたいものを、たまたま相手が持っていた。
だから取った。
子どもにとってはそれだけのこと。
まだいい悪いの判断ができる前の段階です。

なので、

③「取ってもいいんだっけ?」

とこの時期の子に確認すると、
「いい」ってサラッと言います。
大人からしたら、
「えーっ!何この、自己中心的な子は!」
となりますが、この時期の子はこれが普通の感覚なのです。

かと言って、

④「あなたが取られたらイヤでしょ?
 だからお友だちのも取らないでね」

これも、な~んかイマイチ、伝わった感がありません。
(伝わる時もありますが)

自分の感情のみにフォーカスが当たっていて、それ以外は見えない。
「他の人にはそれぞれの感情がある」なんて思いもよらない。
そんな印象を受けます。


いろいろ試行錯誤した結果、
この自己中な段階の子には
感情的に怒ったり問い詰めたりせずに
淡々と、でも真剣に
「あのね、お友だちのものは取らないんだよ」
と伝え続けるのが、
今までいろいろ試した中でいちばん伝わりました。

逆に、この自己中心的な時期を過ぎたら
「取ってもいいのかな?」
と子どもに戻して、子どもが自分で考えて決めさせる方が
一方的に「取らないんだよ」と言われるよりも
効果的という感覚があります。

もちろん、時期の違いだけでなく
子ども一人一人の個性によって
接し方も変わります。

この
どう伝えたら目の前の子どもに伝わるか
は、子どもと接しながら大人が学ぶところ。


この「おもちゃを取られた」という些細なトラブルから
AちゃんもBちゃんも、そして私も学べます。
さらに、周りでそのやりとりを見たり聞いたりしている子どもも
実はこっそり学んでいます。

小さなトラブルを「そんなことで」と流して
大人がジャッジしてしまうか、
小さなトラブルからも、その中で何かを学べるか。
この違いが積み重なるととても大きな差ができます。


「人が集まったらトラブルが起きるのは当たり前。
 そのトラブルからどう学べるか。」 


…大人同士のトラブルもきっとそういうことなんだろうな
こっちのほうがなかなかしんどいけど(--)

木村先生語録(ほぼ自分用)

今日(18日)の交流会でいちばん心に響いたこと
(録音してたわけではないのでニュアンスで)

「障害のある子たちが、
 学びの場から分離されることで
 健常と言われる子たちが
 一見安心して学べるように見える
 かもわからんけど
 
 分けたことで、健常児たちが
失った学び』がどれだけ大きいか。
 分離しろいう人たちにはそこが見えてへんねん。
 失われたものがどれだけ大事か、
 そっちの方を議論しなきゃあかんで。」


「教師の専門性はな、教科指導やないねん。
 そんなの学校じゃなくてもええし、
 何なら機械がやってくれる時代が
 もうそこまで来てる。
 じゃあ人間じゃなきゃできないことって何?
 って考えたらな、

 教師の本来の専門性は
『目の前の子どもをどう分かろうとするか』。

 自分を分かろうとしてくれる人が
 ひとりでもおったら
 その子は生きていける。」



交流会+今までの講演会や本や映像で心に残ったこと

「一見、障害児に優しい、
 障害児のための学校に見えるかもわからんけどな、
 大空(小学校)でいちばん得してるのは、
 実は健常児と呼ばれる子たちやねんで。
 何でかわかる?

 まず、世の中には、自分とは違う人、
 いろーんな人たちがいるということが
 一緒の空間で過ごすことで、
 理屈じゃなくて肌感覚でわかる。
 肌で吸収するから、『みんな違う』が当たり前になる。
 『私はこう思ったけど、
 この子はこう思ったんやな』
 が普通になる。
 
 その(障害がある)子たちが、
 いつもわぁわぁ大きい声出しよる中でも
 どんなにうるさい中でも、
 集中して学ぶ力がつく。

 わからん子に、
 自分がわかってることを教えながら
 『あれ、うまく教えられんわ。
 ってことは自分もわかってないなこれ』
 って言いながら、もう一回学び直しながら、
 相手がわかるように伝えようとする

 全部、これからの社会で生きていくために必要な力やろ。
 だってこの子たちが大きくなって社会を構成していくんやから。
 
 でもこれを、最初から
『この子は発達障害、この子は知的(障害)、この子は健常』
 って分けて切り離してたら、
 こういう学びはぜーんぶ、
 最初から捨ててるのと一緒やん。
 これって、めちゃくちゃ損やで。
 
『この子がこの教室にいて何を学べるんだろう』
 って思われるような障害のある子が、
 ただ同じ空間にいてくれることで、
 周りの子がどれだけたくさんのことが学べるか。
 子どもだけやなく、大人も。
 それを大空の9年間で、
 これでもかというほど教えてくれた」


「障害のある子や、何か問題を抱えてる子が
 安心していられるところなら、
 そうでない子だって安心していられるところ、ってことやろ。
 
 障害のある子が理解できるなら
 そうでない子はもっと理解できるやろ。

 その(障害のある)子たちが生きやすい場所が
 みんなにとっても生きやすい場所ってことやん。
 シンプルやろ?」


「『発達障害』という言葉があるから
 みんなそのくくりで止まってて、
 それ以上考えようとせんねん。見事に思考停止。

 試しに発達障害という言葉を使わないで、
 子どものことを表現しようとしてみ。

・うちの子は、みんなと一緒に何かをするというのが苦手なんです
・うちの子は、大きな音が嫌いで大きな音がすると逃げ出してしまうんです
・うちの子は、鉛筆持ってよう字が書けんのです
・うちの子は、いつも同じやり方やないとパニックになるんです

 いろんな表現ができるやろ。
 今言ったひとつひとつのことって、障害か?
 その子が困ってることってあるか?

 あるんやったら、その困ってることがなくなるように
 ひとつひとつ向き合っていけばいいだけのこと。
 
 こういうことをひとつひとつ丁寧に考えることをやめて
『〇〇障害だから』で終わらせてしまってるのが大人。
 これって差別以外の何物でもないやろ。
 この考え方が、同じ空気を吸ってる子どもに伝わって
 子どもの思想を作るんやで。
 こんな怖いことってないやろ。
 その最たるものが、あの相模原の事件やんか。

 だからまずは大人の意識が変わらなあかんねん。
 子どもが変わってほしいじゃなくてな。」


こんな感じかなぁ。
関西弁が温かくて親しみやすさを増していました。

聞けば聞くほどモンテッソーリとの共通性が山盛りなんだけど
それが私の文章で伝わってるかどうかは謎…