モンテッソーリアン、里親になる。

10年モンテッソーリ教師をやってみて向いてないことが分かった(笑)ポンコツモンテッソーリアンの里親活動奮闘記録。

トラブルが学びのチャンスになるって、どういうこと?

と言うのを、私なりの学びの例を挙げてみる。


例えば、園庭で遊んでいると
どこからともなく
「うわーん」と泣き声が聞こえてきます。

見るとAちゃんが泣いています。

そばにいって
「どうしたの?」
と尋ねると、

「Bちゃんが使っていたおもちゃをとった~(号泣)」

とのこと。

(毎回毎回、同じような例で申し訳ないのですが、
ほんとに毎回同じようなことでトラブルになる日々なのです)


「それはイヤだったね」
「Bちゃんにおもちゃ取らないで、返してって言いに行く?」

そしてBちゃんに、
「Aが使ってたから返して!」
と言います。

これはAちゃん側の学びです。

・自分がされてイヤなことは我慢しないで相手に伝えていいこと
・自分の気持ちを言葉で表現すること

をこのやり取りの中で学んでいます

Aちゃんに
「おもちゃ取らないで!返して。」
と言われたBちゃんが、

「今Bが使ってる!」
もしくは
「Bが使いたいの!」
と返したとき、
(8割超、こう返されちゃうんですよ、ええ)

Aちゃんが困った顔でこちらを見ます。

ここで大人が通訳に入ります。

1歳半頃~3歳半頃までの
「自己中心的なのが普通」の子ども
には

「あのね、Bちゃんが使いたくても、
Aちゃんが使ってたら取らないんだよ」
「使いたいときは『貸して』って言うんだよ」

と、
・自分がされてイヤなことは相手にもしない
・言葉で自分の要求を表す

ことを伝え、

3歳半以降の、自己中な時期を過ぎた子どもには
「使いたかったら、お友だちのもの、
取ってもいいんだっけ?」

・自分がされてイヤなことは相手にもしない 
という約束が守れているか、確認して
自分の頭で考えてもらう

ここはBちゃん側の学びです。


それと同時に
大人側の学びでもあります。

私が失敗から学んだことを羅列してみます。

例えば自己中心的な時期の子に対して、

①「何でお友だちが使ってるもの取るの!」

このときの子どもの答え:
「使いたいから!」

…シンプル~!

ってそういうこと聞いてるんじゃないんだよ!(怒)

残念ながらこの会話、まったく噛み合ってません。

大人の「何で!」は疑問ではなく責め文句です。
でも子どもには全く伝わりません。
気の強い子どもは「使いたいから!」と正直に答え
また怒られる。
弱い子どもは責め口調の時点で押し黙ってしまい
「何で答えないの!」と怒られる。

どのみち、「怒られた」ということだけが残って
伝えたいことが何にも伝わりません。


②「何でそんな意地悪なことするの!」

意地悪のつもりはないんです。
自分が使いたいものを、たまたま相手が持っていた。
だから取った。
子どもにとってはそれだけのこと。
まだいい悪いの判断ができる前の段階です。

なので、

③「取ってもいいんだっけ?」

とこの時期の子に確認すると、
「いい」ってサラッと言います。
大人からしたら、
「えーっ!何この、自己中心的な子は!」
となりますが、この時期の子はこれが普通の感覚なのです。

かと言って、

④「あなたが取られたらイヤでしょ?
 だからお友だちのも取らないでね」

これも、な~んかイマイチ、伝わった感がありません。
(伝わる時もありますが)

自分の感情のみにフォーカスが当たっていて、それ以外は見えない。
「他の人にはそれぞれの感情がある」なんて思いもよらない。
そんな印象を受けます。


いろいろ試行錯誤した結果、
この自己中な段階の子には
感情的に怒ったり問い詰めたりせずに
淡々と、でも真剣に
「あのね、お友だちのものは取らないんだよ」
と伝え続けるのが、
今までいろいろ試した中でいちばん伝わりました。

逆に、この自己中心的な時期を過ぎたら
「取ってもいいのかな?」
と子どもに戻して、子どもが自分で考えて決めさせる方が
一方的に「取らないんだよ」と言われるよりも
効果的という感覚があります。

もちろん、時期の違いだけでなく
子ども一人一人の個性によって
接し方も変わります。

この
どう伝えたら目の前の子どもに伝わるか
は、子どもと接しながら大人が学ぶところ。


この「おもちゃを取られた」という些細なトラブルから
AちゃんもBちゃんも、そして私も学べます。
さらに、周りでそのやりとりを見たり聞いたりしている子どもも
実はこっそり学んでいます。

小さなトラブルを「そんなことで」と流して
大人がジャッジしてしまうか、
小さなトラブルからも、その中で何かを学べるか。
この違いが積み重なるととても大きな差ができます。


「人が集まったらトラブルが起きるのは当たり前。
 そのトラブルからどう学べるか。」 


…大人同士のトラブルもきっとそういうことなんだろうな
こっちのほうがなかなかしんどいけど(--)

木村先生語録(ほぼ自分用)

今日(18日)の交流会でいちばん心に響いたこと
(録音してたわけではないのでニュアンスで)

「障害のある子たちが、
 学びの場から分離されることで
 健常と言われる子たちが
 一見安心して学べるように見える
 かもわからんけど
 
 分けたことで、健常児たちが
失った学び』がどれだけ大きいか。
 分離しろいう人たちにはそこが見えてへんねん。
 失われたものがどれだけ大事か、
 そっちの方を議論しなきゃあかんで。」


「教師の専門性はな、教科指導やないねん。
 そんなの学校じゃなくてもええし、
 何なら機械がやってくれる時代が
 もうそこまで来てる。
 じゃあ人間じゃなきゃできないことって何?
 って考えたらな、

 教師の本来の専門性は
『目の前の子どもをどう分かろうとするか』。

 自分を分かろうとしてくれる人が
 ひとりでもおったら
 その子は生きていける。」



交流会+今までの講演会や本や映像で心に残ったこと

「一見、障害児に優しい、
 障害児のための学校に見えるかもわからんけどな、
 大空(小学校)でいちばん得してるのは、
 実は健常児と呼ばれる子たちやねんで。
 何でかわかる?

 まず、世の中には、自分とは違う人、
 いろーんな人たちがいるということが
 一緒の空間で過ごすことで、
 理屈じゃなくて肌感覚でわかる。
 肌で吸収するから、『みんな違う』が当たり前になる。
 『私はこう思ったけど、
 この子はこう思ったんやな』
 が普通になる。
 
 その(障害がある)子たちが、
 いつもわぁわぁ大きい声出しよる中でも
 どんなにうるさい中でも、
 集中して学ぶ力がつく。

 わからん子に、
 自分がわかってることを教えながら
 『あれ、うまく教えられんわ。
 ってことは自分もわかってないなこれ』
 って言いながら、もう一回学び直しながら、
 相手がわかるように伝えようとする

 全部、これからの社会で生きていくために必要な力やろ。
 だってこの子たちが大きくなって社会を構成していくんやから。
 
 でもこれを、最初から
『この子は発達障害、この子は知的(障害)、この子は健常』
 って分けて切り離してたら、
 こういう学びはぜーんぶ、
 最初から捨ててるのと一緒やん。
 これって、めちゃくちゃ損やで。
 
『この子がこの教室にいて何を学べるんだろう』
 って思われるような障害のある子が、
 ただ同じ空間にいてくれることで、
 周りの子がどれだけたくさんのことが学べるか。
 子どもだけやなく、大人も。
 それを大空の9年間で、
 これでもかというほど教えてくれた」


「障害のある子や、何か問題を抱えてる子が
 安心していられるところなら、
 そうでない子だって安心していられるところ、ってことやろ。
 
 障害のある子が理解できるなら
 そうでない子はもっと理解できるやろ。

 その(障害のある)子たちが生きやすい場所が
 みんなにとっても生きやすい場所ってことやん。
 シンプルやろ?」


「『発達障害』という言葉があるから
 みんなそのくくりで止まってて、
 それ以上考えようとせんねん。見事に思考停止。

 試しに発達障害という言葉を使わないで、
 子どものことを表現しようとしてみ。

・うちの子は、みんなと一緒に何かをするというのが苦手なんです
・うちの子は、大きな音が嫌いで大きな音がすると逃げ出してしまうんです
・うちの子は、鉛筆持ってよう字が書けんのです
・うちの子は、いつも同じやり方やないとパニックになるんです

 いろんな表現ができるやろ。
 今言ったひとつひとつのことって、障害か?
 その子が困ってることってあるか?

 あるんやったら、その困ってることがなくなるように
 ひとつひとつ向き合っていけばいいだけのこと。
 
 こういうことをひとつひとつ丁寧に考えることをやめて
『〇〇障害だから』で終わらせてしまってるのが大人。
 これって差別以外の何物でもないやろ。
 この考え方が、同じ空気を吸ってる子どもに伝わって
 子どもの思想を作るんやで。
 こんな怖いことってないやろ。
 その最たるものが、あの相模原の事件やんか。

 だからまずは大人の意識が変わらなあかんねん。
 子どもが変わってほしいじゃなくてな。」


こんな感じかなぁ。
関西弁が温かくて親しみやすさを増していました。

聞けば聞くほどモンテッソーリとの共通性が山盛りなんだけど
それが私の文章で伝わってるかどうかは謎… 

映画「みんなの学校」で私が得られた2つのこと

最近の記事がこの映画のことばかりで
モンテッソーリはどこいったんじゃい」
と思われてるかもしれないのですが

「子どもひとりひとりの育ちを、
その子にあった形で最大限に応援する」

という大きな柱は、
モンテッソーリにもみんなの学校にも
共通するものだと感じています。

むしろその大事な柱が抜けてしまった、
型だけが残ったモンテッソーリもどきに
違和感をおぼえる毎日なので、
よけい書きたくなるのかもしれませんが。

というわけで今回は、
私がみんなの学校から得られたたくさんのことの中から、特に強く感じた2つのことを書きます。


①今までのやり方に自信が持てた

先日の講演会のあと、木村泰子先生とちょこっとですが、お話しできました。
(というよりそのチャンスを虎視眈々と狙っていたと言う方が正しい。怖いわ!w)

そこで、

前の職場(あかね)がみんなの学校にとてもよく似ていること、誰も排除しない、子どもが自分で考えて自分で動く、自分で人間関係を作れるように大人が陰で支援していること、でもそうやって育ってあかねを卒園した子たちの中でも、学校に行くのがイヤな子が何人かいること、そういう子たちがいるということはあかねでの私たちのやり方がどこか間違ってたんじゃないかと感じてしまって…

とそこまでばーっと話して
私が涙で詰まってしまったところで
木村先生が一言、

「それは小学校が間違ってる。」

とハッキリきっぱり、
明るくにこやかに言い切って下さったのです。

「小学校が間違ってるよ。(2回目)
 大空の子達なんて卒業したあとみーんな、
『先生、中学校って間違っとるな!』
 って言いに来るで。笑」

「でも、そういう声を聞ける中学校、
 聞ける小学校に、少しずつだけどなってきてる。
 だから一緒に頑張ろ」


ものすごく心強かった…!


「子どもが自分で」という柱は
間違ってないよな
と再確認できました。


少なくとも、私みたいな者が
「小学校がおかしい!変われ!」
なんて言うのはとてもおこがましいけど、

小学校の現場にいた、そして子どものためにルールや制度をどんどん変えてきた、その結果として不登校ゼロ特別支援学級ゼロになった学校の先生が

「小学校が間違ってる。変われ!」
と言ってくれるのは、

子どもたちを小学校に送り出す側の身としては
とても心強いのです。

あかねのやり方、間違ってない!

(と伝えても慢心にならない先生方があかねの先生方なので、大声で言えるのです)


②トラブルがチャンスになった

いつもえらそうなことを書いている私ですが、
人間としては割とちっちゃい方なので
(背じゃなくてね、人間性の方)

子どもがトラブルを起こすと
「あぁ、またか…もう!」
とすぐなってしまいます。

でも木村先生の考え方は

「人が2人以上集まったら
トラブルが起きるのは当たり前。

そのトラブルから、どう学ぶか。

これはその子どもにとっても、
周りにいる人間にとっても、
大きな学びのチャンスです。」

というもの。

この考え方に触れてから、日々の保育の中で
子どものトラブルに「チャンス!」とポジティブに向かえる自分がいます。

我ながらなんて単純なんだろうと思うけど。w

この変化は自分の中ですごく大きい。

実は今日、木村先生との交流会に参加するので
この感謝を伝えられたらいいなと思っています。

子どものために

前回の記事「人の力を活用する力」
montessorilover.hatenadiary.jp

を書いたのとちょうど同時期に
こんな記事を目にしました。

mainichi.jp

このアンケートをとってるのが玩具会社なので
スマホ玩具の宣伝用のアンケートだとは思うんですが、
私が気になったのは

お母さん自身が
子どもにスマホはよくないよな…
と感じながらも、それでもスマホを使っている

という現実の部分。

(以下記事より)

「子どもをスマホで遊ばせたことがある」と回答したのは63.3%。
このうち、スマホで遊ばせる理由の内訳;
・自分の時間を確保するため=73.3%
・電車やバス、自家用車での移動中=49.0%
・ごほうびとして使わせてあげたい時=23.7%
・子どもと話題を共有したい時=23.5%

 さらに「スマホで遊ばせたことがある」と答えた母親のうち、
「よくないことだと思う」と「ややよくないことだと思う」
が合わせて76.3%
に上り、
罪悪感を感じている母親が多いことが浮き彫りになった。


これって、現実的に、物理的に、
スマホにしか頼れない状況
ってことだと思うんですよね。。。
お父さんでも他の家族でも近所の人でもなく。


お母さんが子育てをひとりで背負ってる絵がぽやんと浮かんできました。


昨日、
みんなの目で、
子どもひとりひとりを丁寧に見ていくことが、
子どもにも大人にもいい結果になる

ということを書いたばかりだけど、
お母さんたちの現実は真逆なんだな…
と感じてしまいました。


でね、そんなこと言ってるくせに
私自身も、前にこんな記事書いてるんです。

montessorilover.hatenadiary.jp

ここで私は、
スマホ(やデジタル機器)を乳幼児期に使わない方がいいよ~ 
ということを、
スティーブ・ジョブスの子育て話を引用しながら
モンテッソーリの理論も織り交ぜて書いたんですが

ジョブス自身が、夕食を家族と一緒にとったり
家族との会話を楽しんだりしている。
つまり
お父さんが一日の生活の中で
子どもに積極的に関わっている

という点にも注目すべきでした。

子育てをスマホに頼らなくていい関わり方を
お母さんだけじゃなくてお父さんもしているおうち。

仕事で夜遅くまで帰ってこないお父さんを待ちながら
お母さんが子どもをお風呂に入れたりご飯を食べさせたり
寝かしつけたりしながら、長い時間を過ごすおうち。

この差は、大きい。

だからスマ放置なんて言って
お母さんばかり責められるのは、なんか違うと思うのです。

(あっ当然だけど、仕事で遅いお父さんも責めてないです。ていうか個人攻撃する気は全くないです)


そもそも私自身、
長時間労働&長期不在が当たり前の商社マンの父と
専業主婦の母に育てられて
「子育てはお母さんがするもの」
という昭和な価値観がつい最近まであったんです。

でも共働き世帯が専業主婦世帯を超えてる時点で
この価値観ってかーなーり、終わってるんですよね。
だってどう考えても無理、
ひとりで仕事も家事も子育ても、って。

私に至っては仕事と家事だけ(子育てなし)の時点で
かなりいろいろ手抜きでございます。


だけど今まで、この価値観でもって
スマホよくないの記事もそうだけど)
子育てをひとりで背負ってる立場の人を
無意識に責めてたんだなぁ

と反省しました。


実は保育園でも、
親御さんが明らかにお休みの日に子どもを預けると
「お休みの日くらい、子どもと過ごせばいいのに」
という声がどこからともなく聞こえてきて、
私も今まではそれに同調してたんですが

保育園に勤めるモンテッソーリ教師という立場として
子どもの健やかな育ちを最大限に応援する身としては

親後さんがひとりで子育てを抱えこまないように
自分の時間を持てるように
気分転換できて、笑顔で子どもに関われるように
お休みの日でもお子さんを気持ちよくお預かりする。
そしてお子さんの自立も最大限支援する。

という応援のしかたもあるんだな
と今は感じてます。


教師の合言葉が
「子どものために、ひとりでしようとするな」
だとしたら、

子育てをしている人
の周りにいる者の合言葉は
「子どものために、ひとりでさせようとするな」
だと感じた記事でした。

自戒を最大に込めて。今後の記事の書き方も見直そう。

人の力を活用する力 

映画「みんなの学校」の上映会と
木村泰子先生の講演会に行ってきました。
八千代市遠かった~…苦笑

もう、ほんとにほんとに素敵な映画だから
一人でも多くの人に見てほしいです!
上映会スケジュールはこちら↓
http://minna-movie.com/jyouei.php
(っていうか上映会やりたいな…ってどこで?)


講演会の中で
今回いちばん心に残ったのは

教師に必要なのは
人の力を活用する力

という一言。

これを木村先生は現場の先生に言い続けてきたとのこと。

映画の中でも
先生になって2年目、新人の先生が
クラスの子どものひとりに対して
感情的にどなってしまったときに

「そもそも、あんな怒り方をしなきゃいけないような関わり方に、どうしてなったん?」

「あんたが感情的にどなって、ほっといた子どもが
 そのあと窓から飛び降りたらどうするの?
 子どもに関わるってそういうことやで。」

「クビ。クビやで。ほんまに。
 あんな関わり方しかできないなら、
 こどものために教師になるな。」

と木村先生がかなり厳しい言葉で叱咤激励しています。

そのあと、周りの先生たちがフォローに入るのですが
木村先生も周りの先生も共通して
座親先生や新任の先生たちに伝えていたのは

ひとりで抱え込まないこと
ひとりでやろうとしないこと

もっと周りを頼っていい
周りの人を信頼していい

恥ずかしいとか、失敗を隠したいとか、
自分がうまくやりたいという気持ちは
人間だからしょうがないけど

そこの殻を打ち破って
あなたが「困った!」「できない!」ことを認めて声をあげたら
周りにいる誰かしらが、いろんなやり方でいろんな手を差し伸べてくれる
ここはそういうところ

みんなの目で、こどもひとりひとりを細やかに見ていこう
その方が、子どもにとっても大人にとっても
絶対にいい結果になるから

という大きな温かいメッセージ。



教師になりたい!子どもに関わりたい!という人は
私も含めてですが、もともと責任感が強い傾向があります。

「自分のクラスなんだから、自分で何とかしなきゃ」
「自分がこの子の役に立ちたい!」
なんてことを思いがち。

でもこの大人の「自分で!」「自分が!」が
子どもにとっては邪魔なこと、
実はけっこうあるんです。

「自分が」「自分で」という強い思いから
他の誰とも問題を共有しない。

また、自分のことは自分で!という考え方が他の人に向かうと
例えば他のクラスで問題があった時でも
「あのクラスの担任の問題でしょ、私には関係ない」
という冷たい態度になりがちです。

こういう空気があると
問題はよけい共有されず、
閉鎖的なものになります。


でも人ひとりの力なんてちっぽけなもんです。
人ひとりが解決できることなんてほんの微々たるもの。

一人で何とかしようとした結果、
問題が解決するどころか
もっと複雑になり、大きくなります。

大人ひとりの「私が!自分で!」が
子どもにとって邪魔になるというのはこういうことです。


困っている子ども、例えば学校に行けない子どもにとっては

「担任がなんとかしてくれようと孤軍奮闘してくれたけど
 学校には行けなかった」

という形よりも

「担任の先生以外にも同じ学年の先生、校長先生、養護の先生、
 先生だけじゃなくて地域の人や保護者ネットワーク、
 いろんな人がいろんな形でいろんな手を差し伸べてくれた

 そしたら、学校に行けるようになった

という結果のほうが重要だと思うのです。


「先生だって頑張ってるんだよ!」

そんな現場の声も耳にします。

その通りだと思います。
本当に忙しい中、頑張っている先生はたくさんいます。

でもそれでも、
子どもにとっていい結果にならないとき、

「頑張り方がどこか違ってるんじゃないか」

という発想を持てるかどうか。

そして

「自分ひとりの頑張りなんてちっぽけなもんだな
 だから誰かヘルプ!子どものために手伝って!」

と自分の力を過信せず、謙虚になって
自分の器の大きさを自分で認めて
問題をオープンにできるかどうか

それが
人の力を活用する力につながるんだと思うのです。

そしてその力を引き出せる
周りの温かい環境
もまた、必要だと思います。


そういえばあかねにいた頃の私も
園長先生をはじめ、いろんな先生に助けられていたな
と思い出します。

ほんと、新人なんて右も左何もわからない、
何もできなくて当たり前、
それでも3歳児の担任を持たせてくれて
(ただ単に人手不足だったということもあるけれど)

「自分で!」「自分が!」とやってしまって
案の定うまくいかなかったときに
私の自尊心が傷つかないように上手にフォローしてくれて

「ひとりでがんばらなくていい環境」
「いろんな人の目で、子どもたちひとりひとりを見る空気」は
大人はもちろん、子どもにも温かくて優しい空気だったな

と今になって感じるのです。

大人の対応を学ぶ

今の職場の園長に
スタイやエプロンの首ゴムが危ないと言われ
「それで事故が起きたことなんて、今までありません!」
と私(や他の先生方)が反発した

という話を、前の職場で愚痴ったときの
皆さんの対応が大人だった という話。


園長先生「まぁ~それは申し訳ありません」
先輩先生「そう言われてみればそうかも?」
保護者の方「『じゃあどういうのなら危なくないんですか?』
って逆に聞いてみて下さいよ~(明るく)」


…大人の対応ってこういうことですよね。

私が今学ばなきゃいけないの、これだな
と改めて反省した次第です。

ちなみに、

「マジックテープで留めはずしできるものならOK」

だそうです。