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モンテッソーリloverのブログ

モンテッソーリ大好き教師の綴りごとです。

「結果、そうなったその過程」と、「最初からそこを目指すための手段」は、見た目は同じでも中身が真逆

やけに長いタイトルで、しかも何言ってんの唐突に 
という感じですみません。


モンテッソーリ園で働いていると、少なからず

「この子を医者にしたいんですよ。
 だからここ(モンテッソーリ)を選びました」

的な保護者の方がいらっしゃいまして、

私個人的には、そういうのを聞くたびに
(あぁ…↓↓↓)ってなってしまうのです。



ここで、医者の話とは全く関係なさそうな最近のニュースをひとつ。


headlines.yahoo.co.jp


14歳の藤井少年が、羽生さんに勝ったという
将棋素人の私でも「すご!」って思えるニュース。

どうやらこの藤井少年は、たまたま近所にあったモンテッソーリ園に通っていたようなのです。ソースは夫が定期購読している将棋世界

その記事を読み進めると
「幼少期からひとつのことに熱中することが多かった。ハートバッグを100個以上作り続けたり、ビー玉を転がす木のおもちゃで一日中遊び続けていろんなコースを考えたり」
的なことが書いてありました。

ハートバッグはこちら↓
モンテッソーリ ハートバッグ - Google 検索


その後、5歳で将棋に出会い、のめりこんでいって
今の快挙があるようなのです(まとめ雑過ぎ!)。


ここからは私の推測含む感想です。

私はこれは、
モンテッソーリ園も含め、環境が整っていたから
結果的にプロ棋士になった」タイプの育ち方だと感じました。


まず感じたのは、
子どもがひとつのことに異様に熱中しているときに
周りにいる大人は、常に温かく見守っていられるだろうか。
ということ。

私が親の立場だったら
「いつもいつも同じことばっかりやって…
 たまには他のこともしたら?」
的なことをつい言ってしまいそうだな、と。

きっと藤井君の通っていたモンテッソーリ園の先生も
お父様お母様をはじめご家族の方々も
そういうことはおっしゃらなかったのだろうな。

邪魔が入らない環境があったから、
ひとつのことに没頭できたんだろうな。

その没頭できるものが、たまたま将棋だった。
そして没頭し続けた結果、14歳(最年少)でプロ棋士になった。

という話なんだろうな と感じました。


で、冒頭の
「子どもを医者にさせるために」モンテッソーリを選んだ
という話に戻りますと

これは、
「最初からある目的があって、そこをめざすために手段として」モンテッソーリ活動をする
という発想だと思います。


これも私個人の感想ですが、


モンテッソーリの考え方と、すでに真逆なんだよなぁこれ。


モンテッソーリ教育の考え方は

「子どもは球根のようなもので、その中にどんな可能性を秘めているか、例えば何色の花を咲かすかは、私たち大人が周りからその球根そのものを見ても決してわからない。
私たち大人ができるのは、その命が育つ邪魔をしないこと
どんな花を咲かせるかは、あくまでもその邪魔しないという過程を積み重ねた上での結果でしかない」

というものです。


子ども一人一人、好きなことキライなこと、得意なこと苦手なこと、それぞれ違うというのは、わかりきったこと。

なのになんで、子どもの人生のゴールを、親が勝手に決めちゃうのかなぁって。

子ども自身が「向いてない…」って感じたとき、
「こんなことやりたくない…」って思ったとき、
そのSOSを、“子どもを医者にしたい”と願う親御さんは、果たして感じ取れるんだろうか。

というか今まで出会った親子の中で、「子どもを〇〇にしたい」タイプの親御さんを持つお子さんは、幼少期にすでに何らかの形~暴れたり、逆に黙りこくったり、ウソをついたり~でSOSが出てるな、と感じてたけど、

親御さんはそれを果たして分かってるだろうか。
分かってたとしても受け入れられるんだろうか。

もちろん中には、「親の言う通り医者になって今幸せです」っていう人もいるだろうから、それは素敵な結果だと思うけど、でもそれはあくまでも「結果として」よかったね、というだけの話。

などと悶々と考えてしまい、(あ~ぁ…↓)となってしまうのです。


子ども本人が持っているものと、周りの環境とが合致すると
その子らしくのびのびと、幸せな形で社会に立っていける。

というのは、藤井少年を見ていると感じますね。
インタビューとか読んでも、幸せそうなんだ…いいよね…こっちも幸せになる…


私の中では、子どもたちが幸せになるお手伝いをするためのモンテッソーリ


日本では英才教育、早期教育ととらえられがちなモンテッソーリ教育ですが
本当の意味でのモンテッソーリが少しずつでも浸透していくといいなぁ…(切実)

モンテッソーリを知らない方からの質問に答えてみる ベルの音編

モンテッソーリ園では、ある活動から次の活動にうつるときに
小さなベルをチリンと鳴らして、お知らせをします。

というのを、あまり何も考えずにやっていたんですけど。

「なんでまたベル?犬じゃあるまいし」

という感想を、モンテッソーリを導入しようとしている園の先生から頂いた
と友達から報告があり、
改めてその意味を考えさせられています。
犬か…う~ん。


ベルを使わないシチュエーションだと、

「〇〇ぐみさん、つぎは~のじかんです」

と声で伝えることになると思うのですが、

子どもがそれぞれの活動をしている空間というのは
ある程度ざわついています。

そのざわめきの中で、大人の声をもって伝えるというのは
大人が、子どもたちのざわめきよりも大きな声を出さないと
届かない、ということになりがちです。
(実際、そうやって大きな声で次の指示を出すというイメージが
保育士や幼稚園の先生にはあるのではないでしょうか)


団体の声の中の、ひとりの声というのは、予想以上に通りません。

でも、ベルを小さくチリンと鳴らすと
声とは違う音に、皆ハッとして静かになり、音のした方を見ます。

その静かになった一瞬で、次のことを伝えると、
声を張らなくても、普段通りの声の大きさで
全体に伝えることができます


次のお知らせをするときに限らず、
モンテッソーリの先生は
大きな声を出すことがほとんどありません
叱ったり、注意したりするときでさえも。
(と書きながら日々の自分を反省しています。今日も…あぁ)


それは、子どもを人として尊重し、
子どもの集中を何よりも大事にしているから
だと思うのです。


ひとつめ。
大声を出さないことが
子どもを尊重することにどうつながるか。

突然の大きな声というのは、子どもにとって、時には大人にとっても
心の暴力となりえます。

大声を出している本人はそのつもりはなくても
「あのせんせい、いつもおこってていやだ」
と言われることもよくあります。

不要に大きな声というのは
子どもを不要に驚かせ、委縮させたり、逆に反発させたりします。

それはとても自然な反応だと思います。

「そんな大声で言わなくても、わかるよ!」

という気持ちの表れだと思うのです。

その子だけに聞こえる声で、ゆっくり、分かりやすい言葉で伝えることを努力するだけで
どれだけ子どもが安心できるか。

子どもの安心を大切にするということが、子どもを尊重するということにつながってきます。


ふたつめ。
子どもは、自由に選んだ活動を通した「集中」によって変わります

montessorilover.hatenadiary.jp


どう変わるかというと、
その子が本来持っているいい部分が、表に出てきます

集中によるいい変化をとても大事にしているから
おしごとと呼ばれる、自由選択活動の時間の終わりを知らせるとき
集中を妨げないように、
大声を出す前に
一度ベルの音で「これからお知らせをしますよ」
ということを伝えるのだと思います。


だから、ベルじゃなくても
例えばオルゴールでもいいと思うんですよね。
ベルが犬っぽいと思うのならば。

実際、海外でモンテッソーリの資格を取った先生で
オルゴールを使用している方もいます。


ベルやオルゴールを使うのは「大声を出さない」ため。
「なんで大声を出さない方がいいのか」
というところが、モンテッソーリをこれから学ぶ方にも、実体験的に分かってもらえたらいいなと思います。

はじめましてのご挨拶

子どもの年齢に関係なく、
たとえ0歳でも1歳でも
初めて出会ったときには

「はじめまして。〇〇です。よろしくお願いします」

大人にするのと同じように、丁寧に挨拶をすると、
子どもが心を開いてくれるのが早い気がします。

今週に入ってからは、
慣らし保育を終えた子どもたちと
初めて顔を合わせることが続いていたので
ほぼ毎日、「はじめまして」とご挨拶。


もうすっかりなついてくれています。
早い。w

ひとりの子は、名指しで「〇〇先生、すき」と親御さんに伝えてくれたそうです。
嬉しい。


「はじめまして」の意味がわからない子どもでも
自分が人として尊重されて大切にされているかどうかって
こちらの雰囲気や態度や口調で分かるんだよな
だから心を開いてくれるんだろうな

大人も油断しないで
日々の言葉やふるまいで、ちゃんと伝えないとだな

と感じている日々です。

大人が手をかけ過ぎない方が、子どもが伸びる説

というのが私の中にありまして、w

新年度になり、新しい先生方も増え、
年少~年長混合組計18人(去年度の新設園なので年長が少ない)のクラスに
なんと先生が4人もついております。

多すぎ!www


大人が多いと手厚くていいじゃない、

と一瞬思うのですが
一概にそうでもないようで。

子どもってすごく不思議で、
大人の手が余ってることが無意識にわかっちゃうんです。
そうするとよけいな甘えが出てきて
本来自分でできることでも、大人にやってもらおうってなるんです。
計算とかではなく無意識だと思うんですけど。不思議~


例えば、お昼寝明けの様子を見ていると
起床→着替え→帰りの支度→おやつ
という同じ流れでも

先生が4人ついているとき;
全員揃うまでの時間=1時間

先生が2人のとき;
全員揃うまでの時間=35分


大人が少ない方が早い!
やればできるじゃん!ってなりました。w

実はこの時間の差、年中組の動きの速さで変わってきていました。

1時間かかった日は、遅い子どもの中に年中さんが4人もいたのに
35分の時はゼロ。
年少組の動きはほぼ変わりません。

年中さんは、流れは今までと変わっていないし、年少さんの1年で着替えも身支度もだいぶひとりでできるようになってきたので、1時間はかからないはずなんです。
が、大人が4人もいればこうなるんだなと。
大人、逆に邪魔だなと。

年少さんはしょうがないよ、まだ初めてだから。そこはペースを見ながらつきあいます。その積み重ねで今の年中さんみたいになるのだから。一緒に頑張ろうね。

大人が手伝いすぎない方がいいこともある。というお話。


おうちでも、例えば下の子の世話に手を取られて上の子が「できない!」ってかんしゃく起こしていたら、それはもしかしたらその子が伸びるチャンスかもしれません。

「おとうさん/おかあさん、オムツかえてるから今はどうしても手伝えないの、ごめんね。自分でできるところまでがんばってみて。どうしてもできないところだけ、おむつ替えが終わったらお手伝いしに行くから、それまでがんばって」
と、なぜ今手伝えないのか、いつなら手伝えるのか、それまでどうしてほしいのかを言葉で伝えたうえで子どもがやろうとするのを待つ、というのも、子どもにとっては逆にプラスになるのかもしれません。

自分でやろうとしたことやできたことを一緒によろこぶ、というフォローは必要ですが、手をかけるだけが本当の意味での愛情ではない、というのを知っていると、本当に大人が手いっぱいの時も、変に罪悪感を持つ必要はないのかもしれません。

自分の手で、自分の意志で生活を営んでいくということ。

叔母が亡くなったり、母が入院したりということが続く中で
家に残された叔父や父が自分の食べるものの用意さえ苦労している姿を見ると、

自分の生活を自分の手で作っていくというのは
老若男女問わず、必要なことだと実感させられます。

女の子だから料理を習わせようとか
男の子だから家事はやらなくていいとか
それって結局、いつかどこかで自分の首を絞めてしまうような価値観だな、と。


別に凝ったものを作れるようにならなくてもいい、
味噌汁を作ったり、肉や魚や野菜を切って蒸したりゆでたりして
簡単なものができればいい。
でもそれさえも、今まですべてを妻に任せていた男の人にとっては、
わずらわしいことのようです。

自分の食事管理ができるようになるには、
小さいころから食材や調理に親しみ、
手を動かすことが苦じゃない、
わずらわしいと感じない、
このくらい普通にできると思えるような育ち方が
今後どんどん求められていくと思うのです。


という思いと、
1歳台からバターナイフを持ってバナナを切り、
年少さんになったら本物の包丁でスティック野菜を切り
年長さんの頃にはスイートポテトやパンケーキなど簡単な料理をする
今までの園で見た子どもたちの姿がリンクしました。

やっぱり大事なことなんだよなぁ。
自分の手で、自分の心で、自分の生活をたてていくということ。


新年度しょっぱなからやや重めの話になりましたが
今日も子どもたちの自立のお手伝いができるよう
精進してまいります。
(それどころじゃないかな~泣いてるかな~)

自分で選んで、考えて、決められることの幸福感

モンテッソーリ教師0-3コースの電話面談及び入学決定
→母の入院及び手術
→今の職場の卒園式
→叔母の葬儀
→前の職場の卒園式
→母の退院及び実家の家事手伝い 
 が発展してお引越しレベルの断捨離及び模様替え←イマココ

これ3月だけのできごとでして
身体は実家と今の住まいを往復、
心は喜びや感動と悲しみや不安との間を往復。

さすがの私もやられ気味w

ブログ更新もままならず(言い訳)すみません。
書きたいことはいろいろあるのになぁ。


とりあえず、病的なまでに物が捨てられなかった母親の、大病を経て起きた劇的な変化を通して

・自分で選べることは、嬉しい(今の自分に必要なものだけを取捨選択している)
・自分で考えることは、楽しい(どういう風に家で過ごしたいかをイメージ)
・自分で決めたことは、納得できる(捨てると決めたら躊躇なく捨てられる)

というのは老若男女問わず共通なのだなということをヒシヒシと感じています。
私もその手伝いができるのは、楽しい。

ということだけ書いて、今回はおしまい!
落ち着いたらまた更新します!(逃)

子どもを、ひとりの人間として尊重するということ

が根底にあるから、私はモンテッソーリをこよなく愛せるのです。


むしろこれが根底にあるならば、モンテッソーリに限らなくてもいい。
アドラー心理学だろうがイエナプランだろうが
ピースフル・スクール・プログラムだろうが、
とにかくどんなに小さな子どもでも「子ども扱い」せず、バカにせず、力で黙らせず、
ひとりの人間としてその思いや考えや言動を尊重できるなら、その手段は何でもいい

逆に、どんなに立派なことを謳っていても、
その陰で子どもをどついたり暴力をふるったり、大声でどなったり脅したりしていたら
それはもう、虐待です。
育っていく子どものそばに、いちばんいてはいけない種類の大人です。


というのを強く感じてしまうなぁ~最近のニュースを見ていると。
ねぇ森友さん。


で、残念ながら、とても残念だけど
体質としては、今の園も似通ったところがあるなぁと感じてしまうのです。


森友学園も今の園も、いや今の園は森友よりははるかにマシだけどそれでも、
大人の見栄や、大人が良いと思っていることの一方的な押しつけが最優先されているような気がしてなりません。

表向きではモンテッソーリを謳いながら、裏では食事中に絶対にトイレに行かせないとか、オムツが取れないと進級できないとか、子どもを人として全く尊重していないことをしてしまっているというのは、モンテッソーリを愛する者としては怒りしかありません。モンテッソーリがいちばん大事にしている、子どもの気持ちはどこへいった。


愚痴ついでにさらに愚痴ると、

年中さんの女の子で、気になる子がいます。
ちょっと注意されると、フリーズしてしまったり、パニックになってしまって泣き続けてしまう子がいるんです。

入園してからずっと気になっていたのですが、
先日お母さんがお迎えの時にぽろっと話してくれたことで、その理由が分かりました。詳しくはここには書けませんが。


で、そのことを園長に報告したときの第一声が

「それって、園の悪口とかではないんだよね?
おうちの中での話だよね?」

次いで

「先生、話聞いてあげて~」

で、終了。


結局、見栄か。
見栄えさえよければ、いいのか。

と、とってもガッカリしてしまいました。


前の職場だったら、
「〇〇ちゃんのこういう現状についてですが、おうちでこういうことがあるようです」
「それをふまえて、園ではどのように対処していきましょうか」
ということを丁寧にきめ細やかに話し合って
先生方全員で共有して、
ってことが当たり前だったんですが。

そんなことを今の園に期待した私がバカだった。
バーカバーカ(やけ)



5月から、もう一度、
子どもを一人の人間として尊重するということを学び直そうと思います。